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【序2-2/2】 陽香漂う倭國

陽香ロマンただよ倭國わこく

文化ちからの交流

1 筑後川流域國
2 奴國の変化

奴國の変化

1

奴國 消えた金印

好古都國こうことこく(吉野ヶ里)は越南エトナン族との融和が順調に進み、125年には人口の増加が見られた。
いっぽう脊振の峰を越えた北側に位置する奴國でも大陸から流れ着いたトウ一族いちぞくが力をつけ始めていた。
一族は大陸の商人の族長で、権力が横行する世に、己の力、武力を束ねた軍の力を率いては戦場に赴き自らも闘いそこの大将の目に止まるようしたたかに動いていた。 トウの祖父(ボク)は血気盛んで若かりし頃、武功も治めるだけでなく才も駆使していた。
商いの人脈を使って地位を築き権力の中枢にまでのし上がってきた。
この一族は高句麗こぐりょの動きを鋭い嗅覚で感じたのか、早々に大陸を出て奴國へ入り、思うがまま次々と宦官かんがんをてなづけていき、この国の権力者さえも制圧してしまった。
 前期の奴國は消え、トウ一族が支配した後期の奴國が新たに國の規制を厳しく統制するようになった。

しかし、後ろ盾である大陸の権威の象徴、金印は行方ゆくえが解らず当面は大陸で培った人脈を頼りに民への威厳を示しつつ権勢を誇るように振舞った。
宦官かんがんらも民たちに偉大な國主ボク様(トウの祖父)と呼ぶよう強制した。 
一族はアメとムチをうまく使い分けて民心を操り、二代三代と続いていった。
常に大陸と交易を結び、大陸にこびを売り権限を得ていた。
強大な後ろ盾のもと暴虐無道ぼうぎゃくむどうな振る舞いもあったようだ。

奴國の傘下にある周辺地域のクニ、ムラの大半はそれに従うしかなく弥奴國、姐奴國、蘇奴國、華奴蘇奴國、鬼奴國、烏奴國などとクニの名に‘奴’を加えることで安寧を装うことも必然のようにみえる。

主に築港、博多、板付、岡本あたりの平野と干潟を利用して民の生活の基礎を根付かせ、周辺のムラやクニを言葉巧みに騙し操っていた。
どれほどの部族が手の平を返され侵略され従属させられてきたことか。

この地の民たちは文字の活用を知らない。
記憶の引き継ぎは、口伝のみであり正確な記録というものはない。
無知な民とは、素朴で未熟な民であるがゆえ、数年にわたり従属させられてもやがてその環境に慣れていく。
 隣人が移り変わり他の民族が入り込み隷属の空気が薄れ、それでもなんとなく生活が出来て子供の笑顔と成長だけに安心をゆだねた大人が一人また一人と、口々に國主様とあがめだしてしまえば、十年、二十年と時が経つにつれ本来のこの地の精神性というものは抜け堕ちてしまい、元に戻すことは出来なくなってゆく。
それがトウ一族の狙い。

トウ一族が率いる大国なる奴國の一番の課題は
金印の在処ありか
その行方は既にトウの手中に半ば収まるかにあった。ところがそれはスルリと取りこぼれていった。

トウの祖父ボクが奴國に入城したのは126年頃。
国内の戦う士気を高めるのにおよそ9年をかけた。
135年に周辺諸国の一つだった早良國を侵攻したその時、既に金印はシンの祖父エテが奴國の先王より委ねられておりエテからエト(シンの父)に引き継がれその行方はエトしか知らなかった。

前期奴國の貢物外交は信頼のおける商団にその権限を与えていた。余程その商団の頭は先代王との縁が深かったのだろう。
その商団の役を担っていたのが早良國。
元々シンの祖父エテ、父エトのルーツは捕鯨船団を生業なりわいにしていた海洋技術たくみ海人かいじんだった。そこに繋がりがあった。
早良という國は奴國の小さな属国ではあったけれど大陸の覇権を握る時の覇者の機嫌を伺う重要な役をになわされていた。

後期奴國の王となったボク(59歳)も宦官から得た密かで確かな情報であっただろうから金印が見つからなかった事は高齢であった身に相当こたえたようだった。
(60のよわいは現代で言えば80歳程か)

初代から二代に権限を譲ったのはこれが起因する。

奴國の二代目(カメ40歳)は初代ほど貪欲ではないため領地拡大の勢いは鈍かった。 
周辺諸国のちからは奴國の前期の時期と比べると格段に強くなり宦官の目を平気に欺くクニもうごめきだした。
しかし、奴國も将来の若き三代目が側近として力を付け頭角を現しこれら周辺地域に睨みを効かせ始めた。
二代、三代と代わるにつれ力を持つ者は、民が真に求めているのものが何なのか?
毛筋ほども考えてなかったし、見ようともなかった。
民がどうなろうと、親族がどうなろうと、力持つ者、権力者が見ているのはただ己の強さ。
それに酔っているだけと化してしまった。

――己に酔い自己中心の決断を下すときその暴走を、愚かな民や忠臣は勇気ある決断だと賛辞する。

歯止めの効かない三代奴國王となったトウの動きは次に紹介したい。

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