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貨幣の役割

現代は貨幣の経済が世界を瞬時に巡る時代。

石や金属の貨幣から紙幣にそしてビットコインなどの仮想通貨へインターネットの情報流通世界が数年単位で目まぐるしく変化発展成長している。

激しい進化にどれだけの国々が協調されてどれだけの国々が置き去りに、また開き直って違う道を模索あえいでいる事だろう。 立ち止まり考える時間は許されないのだろうか? 誰も脅迫している国は無いはずなのに。 自国の民衆が他所の国の情報・映像と比べてしまい焦ることは罪なのか?

情報の発達ゆえの焦りを発生させる事は生き物の性(サガ)で自然の理(ことわり)。

焦りを確実に産む流れに人間は分かっていてインターネットを欲する。 そして今やAI技術が新たな課題を突きつける。

 原子力エネルギーを見つけたアインシュタイン。その葛藤と同じく混沌を極めているこの地球。地球温暖化から地球沸騰化。

 解決の糸口になるだろうか? そもそもの疑問をぶつけたい。

価格の設定。 貨幣の価値。 なぜ衣食住の快適化を通貨で統一しなければならないのか?

貨幣という概念がなかった時代は保存の効く主食や副菜に価値があった。物々交換で四季を暮らした。飢饉や災害で苦しめば隣国が助け合った。

共存という美しい絆が思想の根底に流れていた。

そこには、土地特有の物産が実り交流があり認め合う心が通っていた。

地球はその都度その体をダイナミックに使ってストレートに成長の道筋を指し示していた。

人間がエスカレートに道を外せば地球もその道筋をエスカレートするのは必然。

 日本には戦国時代に米を石高と言って諸大名に土地を割振っていた。 その土地の農民が耕した農産物で潤いが定まっていた。プラス貨幣も流通していた。 しかし、庶民の暮らしは貨幣が無くとも死に至るほど食い扶持に困る事は無かった。

 当に自給自足と通貨経済が両輪として機能していた。

石高が低ければ隣国が助け合った。それは、隣国の商人や農民たち底辺に限らずだろうが頻繁に行き来したのはやはり身の軽い底辺の人達だったろう。

現代は収入がこれだけしかないとなればそれが生活の質の定規となり不安がその家庭を襲う構図になっている。
それだけの機能が貨幣の価値として成り下がっている。通貨の価値を単細胞的に表しているだけ。
本当にそれだけが貨幣の価値なのか?
その土地に生きる人の貯蓄財力の見える化そのものが恥ずかしいことではなく支え合うバロメーターとして世界共通認識になればどうだろうか?

カネは支援する定規そのもの。それこそが本来カネの流通する最大の目的だった。と何故人間は思い出せないか!?
あまりにも醜い自我の競争(狂騒)に明け暮れている。
宗教戦争まで飛躍する議論指摘などさらさらないが肉体的資本は皆生まれながら平等なのだから(栄養失調や障害などの差も補う社会風土が基本)そこにこそ畏敬をもった風土の構築を見たい。

金で飲料パックが買える。
買っているのは実はその裏で支えている人の手汗だし、環境そのもの。
私たちはカネをもっと意味のあるものへと進化させる時が来ていると大地から教えられてはいないか?
ロマンを求める 無糖缶 より。(о´∀`о)
2024.0708

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