むにゃむにゃ

おひさしぶりである。
わたくしは何ら変わらず、ご機嫌と不機嫌を繰り返しながら生きておる。
今は喫茶店でゆずソーダを飲んでおる。
最近は神戸に旅行に行き、良い街だな~と思った。海が近い場所はいい。だからわたしは他の何になんと言われようとも水属性だと思う。すきだから。
人間たちが何とか診断を繰り返し自分を分析したつもりになりいくつかに分けられたタイプに自分を当て嵌め理解したつもりになり、その割に「でもそのタイプの人って何百万人もいるんでしょ」とか言うと機嫌を悪くなさる。

お前って他人に興味が無いよね、と言われることが多くてめんどくさいので否定も肯定もしていないけど、興味はある。でも他人が望んで提出した自分カルテ的なものには全く興味がない。
私ってこういう人間です!と言われたら、それ以外のところが知りたい。

旦那は、カテゴリ分けした人間をそのカテゴリの名前を指標にして遠ざけることが出来る人間なので、例えば子ども、大人、老人、男、女、学生、外国人、みたいな括りで好き嫌いがあり、この間それをわたしが、
「もったいないなあ」
と言ったところ、不服そうだった。
「どんな種類の人間にもいいやつとわるいやつっていうか好きなやつと嫌いなやつがいると思うからもったいないと思うの、ガキは嫌いとかこういう職業のやつは嫌いとか思うのは嫌いになった人がたまたまガキだった、その職業だったってことだよね、で、そういう類の人間によって自分がまた不快な思いをしないようにリスク回避のために嫌ってるんだよね」
みたいなことを言ったら、そうかもしれない、と言っておった。わたしは別にそれを否定したい訳じゃなくて、もったいないという感想を抱いただけで、旦那にわたしと同様の思考を強要したかった訳では無いのでそれは伝えた上で、そういう話をした。
そもそもそういう話になったのは、
「障害者だから、可哀想な人だから、差別されてる人だから優しくしなきゃいけない風潮クソキモイよな」という双方の話の先でだった。
今の世の中で1番強い力を持ってるのは自分を弱者だと認めてる人間だから。
わたしってこんなに可哀想なんです、わたしってこんなに差別されてるんですと訴えるやつの声だけがずっとでかい。可哀想、はメガホンみたいなものなので、本当にでかい。わたしは正直その訴えを聞くことが苦痛になってきた。
勿論、正当な意見や主張は除く。
上手い言葉が見つからないけど、「じゃあお前は何がどうなったら満足なんだよ」というタイプが苦手なのだと思う。文句は言うけど代替案は出さない、可哀想な顔をし続けるだけで変化を選ばない、そういう自分がそんなに嫌いではないことに気がついてない、そういう人間が、自分の立場や障害や性や性格を盾にして、理解して寄り添わないお前らが悪、と思ってるのが見ていられない。
それはもう矛だから。

性的マイノリティの昔の知り合いに、当時かなり八つ当たり的に罵倒されたことがあった。
「あなたには絶対に分からない、だって望む前から全部もってるから。与えられてるから。」
みたいなことを最後に言われた。
分かるわけがない。わたしのことを、全部持ってる人、与えられてる人、分かるわけない人、と思ってる人間と分かり合えるわけが無い。わたしが奪われてきたものもわたしが奪ってきたものも与えられるまで成り上がるまでのこともわかるわけがないし、救えない。
わたしは可能な限り、自分の大切な人たちには寄り添いたいし可能なら救いたいと思って生きていたし今も生きているけど、あるところで、救われるつもりがある人しか救うことは出来ないな、と気づいた。
だからともだちが彼氏に殴られていても、浮気され続けても、借金のある男と結婚しても、「やめなよ、別れなよ」と言ったことは1度もない。それでも好きなら一緒にいればいい。正しさなんてどうでもいい。自分を大事にするよりも大事なことが出来てしまったら、それはそれでいい。その代わり泣き言は聞かない。なので今わたしに残った友人はまあまあな猛者共だけなのだ。

話は変わるけど一か月前くらいから音楽が聴けなくなった。本が読めなくなった。フィクションも観れなくなった。苦痛に感じて止める訳では無いけど、頭と心の具合が悪くて文章を読もうとしても目が滑る感覚(文字は読めるけど入らない)が全てに起きている感じ。音は聞けるけど心が動かない、言ってることは理解出来てるけどなんとも思わない、そんな感じ。
ラジオは聴ける、なのに音楽が聞けない。
もっぱら孤独死の特殊清掃とか怪談のYouTubeばかり見ている。
精神が落ちている時、未解決事件Wikiやオカルト板、不思議netを漁っていた人間なのでそういう時期か…と思っていたけど今回はあまりにも長い。
昔からの友達にその話をしたら「絶対疲れてる」と言われたけど今これと言ってすごくストレスということもないので突破口が見当たらない。
原因があるとすれば、一か月前沖縄で浴びた夜風が気持ちよすぎて「これ以上に心がふるえることなんてそうそうないな~」と2時間近く外で寝ていたから、そういう本当の体験以外のものに心が動かなくなった可能性はある。
でもねえ…という感じである。
なのでYouTubeの怪談業界にかなり詳しくなり、事故物件の告知義務なども学んだ。
そしてその話を聞いていた友達がひとこと、
「フィクションは全部嘘じゃんって思ってるんじゃない」
と言ったので、恐ろしくなった。わたしほどフィクションに救われてきた人間もいないであろう。その私がフィクションを必要としなくなったら、本当にセックスと飯と睡眠しか必要としなくなってしまう。

前の話ともなんとなく繋がり、自己分析もカテゴライズもマイノリティも何もかも、人間の後付けでしかなく、そこに本当なんて見えない。そしてもしかしたら私はもうそこには興味が無いのかもしれない。
そしてフィクションのように、誰かが何らかの意思を持って作ったものの意図を汲むことに疲れてきているのかもしれない。
わたしはたぶん見ようとしすぎてきたから。相手が何を伝えたくて何を思って何を求めているのか、腹の中を、底を、ほじくることをしすぎたから今少し疲れたのかもしれない。

またそのうち映画を観て泣いたり新しい素晴らしい音楽に出会ったり、小説の一文に心を打たれたりしたい。


最後に、わたしに的確な刃を突き立てた友達が「わたしもここ一週間くらい東出さんのYouTubeしか観てない」と言っていたことが面白かったので書いておく。特殊清掃や怪談都市伝説しか観れなくなった女と、いま東出に惹かれ始めた女が鍋をつついていた。どっちもどっちなような気がする。
東出は山奥で自給自足の暮らしをしていてもなお、女が複数集まってきているらしい。彼はいつか一夫多妻の村を作るかもしれないな。うらやましい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?