大好きな「いちご100%」の先に、編集としてのぼくがいる話

最近ツイッターで、「自分を作り上げた漫画4選」というハッシュタグがバズっていた。

ぼくもそれに便乗し、「ドラえもん」「エレメンタルジェレイド」「いちご100%」「ナルト」の4つを挙げたのだけれど、そのときになんとなく自分の「編集」という職業のルーツがあったことを思い出した。

小学5年生のころ、ぼくの生きがいは月曜日に発売される「週間少年ジャンプ」と、火曜日夕方6時から放映されていた「エレメンタルジェレイド」だった。

今でこそ月曜と火曜は仕事の憂鬱さで死にそうになるが、当時の僕にとってはなんのその。

たとえ土日が休みだとしても、学校へ行く必要がないとしても、ジャンプとエレメンタルジェレイドがない日なんてなんの価値もなかった。

エレメンタルジェレイドについてはまた別の機会に語るとして、今回は週間少年ジャンプとぼくの編集ルーツについて記しておこう。

なんであんなに少年ジャンプが好きだったかというと、当時ジャンプで連載していた「いちご100%」が死ぬほど好きだったから。

好きで好きで好きで仕方なかった。

どうしてあんなに好きだったのか、と言われると即答できない。人生ではじめて読んだ「ラブコメ」だったからかもしれないし、作中に登場する東城綾というヒロインが死ぬほど好きだったからかもしれない。

小学5年生のときにちょうどやっていたのがいちご100%でもっとも盛り上がる後半部分。具体的にいうと高校3年生の合宿から、主人公・真中純平が東城綾、西野つかさという2大ヒロインのどちらを選ぶかという神展開が続いていたこともあるだろう。

もちろんいちご100%抜きにしても当時の「週間少年ジャンプ」は熱かった。「ナルト」「ブリーチ」「ワンピース」という看板漫画があり、それを支える「デスノート」「銀魂」「テニスの王子様」「アイシールド21」「ディーグレイマン」「リボーン」といった中堅作品たち。

2000年代のジャンプ黄金期といえば、まさにそのあたりを指すだろう。そんな激動の時代の中で、いちご100%は唯一無二のラブコメ作品として3年間戦い、打ち切られることもなくしっかりクライマックスまで描ききった。

毎週いちご100%が楽しみで楽しみで、ジャンプを買ったらまずいちご100%を読んでいた。

だが楽しい時間はやがて終わるもの。忘れもしない小学5年生の8月、いちご100%は3年間の連載に終わりを告げた。

たしかに終盤、ぼくの愛する東城綾はすでに恋愛戦争に敗北し、西野つかさと真中純平との既定路線だった。

でもでも、でもさあ。

大好きな作品が終わるというのはとても辛いもの。まして生きがいとしいたいちご100%が終わるということは、当時のぼくにとって生きる意味なんてないってことと等しかったのだ。

もちろん、いちご100%の最終回はジャンプが擦り切れるほど読み直した。

擦り切れるまで読んで、今でも覚えているのは扉絵のアオリ。

「ー迷いながら つまづきながら 夢に向かって 恋をして。今は歩む それぞれの道。いちご、終幕(フィナーレ)ー」

ジャンプを読み始めてはや15年。いまだにこれを超えるアオリを見たことはない。

「お見事」のひと言だ。

これほどまでに「いちご100%」の最終回を適切に表している言葉はない。「すげえ」って思った。

マンガ雑誌において、作品のはじまりと扉絵、それと最後にアオリをつけるのは編集の仕事だ。このアオリは単行本には載らないし、ほとんどの人は読み飛ばしていると思う。

ぼくもそうだ。そもそも毎週毎週、編集がアオルほど続きが気になる展開を続ける作品はないわけだしさ。

けれど作品の最終回や、物語のキーとなる場面、箇所。そこに適切なアオリを入れられるのは、一部の優秀な「編集者」だと思うのだ。

いちご100%にしても、これがもし別の編集者だったら。ジャンプの新人編集が甘えた考えで「いちごの果実、最後まで堪能あれ」「もぎたていちご、100%完熟!」なんてしょーもないアオリを付けていたら。

ぼくはきっといちご100%が終わることを許せなかっただろう。いちご100%の最終回アオリを読んで、編集という仕事に憧れた。

ぼくは別にマンガ編集をしているわけではないけれど、どんなジャンルにせよ「編集」って仕事は適切にアオル仕事だと思っている。

コンテンツに適切なタイトルをつけるのも、見出しやリードを工夫するのも、すべてアオル仕事。

小学5年生の夏、いちご100%の完結に涙したぼくだけれど大丈夫。あの日完結したいちご100%の先に、ぼくがいる。

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