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23.4.6 母校と父とサッカーと

こんばんは。週末ではないですが書きたくなったので投稿することにしました。備忘録ですが是非。


母校

2023年4月、私の最初の母校である伊丹朝鮮初級学校では入学式が行われませんでした。始業式も行われませんでした。

学生数の減少によって、今年度から尼崎朝鮮初中級学校で授業を受けるそうです。

伊丹朝鮮初級学校は幼稚園から小学卒業までの9年間通った、私の最初の母校です。

9年間、人として大事なことを数えきれないほどに学びました。同胞の暖かさに支えられながら沢山成長できました。


私が小学6年生の時(2013年)、在校生が3桁を切りました。

高校3年生の時(2019年)、在校生は6年前の約3分の1まで減っていました。
運動会に行った日のことが忘れられません。小学生の時はテント1つに4家族いたのがテント1つに1家族しかいませんでした。テント間も空いていてこの目で学生数の激減を目の当たりにしました。


それでも暖かさは変わりありませんでした。いつ行ってもそこには安心感がありました。そんな場所で今年度学ぶ学生がいないのはとても悲しいです。


幸いにも建物は残っています。長期休暇の時に必ず行きたいと思います。


父は私が今所属している朝鮮大学校サッカー部のOBです。卒業後、在日本朝鮮蹴球団に属してサッカーを続けました。

私が小学校低学年の時に、父は土曜日の放課後に学校でサッカースクールを開きました。自身のサッカー人生を通して学んだこと、そして何よりサッカーを楽しむことを教え続けました。

私の卒業後、そして2つ下の弟が卒業した後も父はサッカースクールを続けました。今年の3月まで、13年間も続けたそうです。それもボランティアで。一切の見返りを求めず、ただ学校のため、子供たちのためにサッカーを教え続けました。

ここ数年は、長期休暇の際に父と一緒にサッカーを教えに行ってました。その時の写真です。

小学校のサッカー部のコーチも並行して行っていました。サッカーだけでなく、練習後にご飯に連れて行ったり、キャンプにも連れて行ったりしていました。美味しい料理がテレビで出てくると「あの子たちに食べさせてあげたい」、楽しそうなアスレチック施設をネットで見つけると「あの子たちを連れて行ってあげたい」・・・まるで我が子のように可愛がっていました。

そんな父が開いたサッカースクールも、今年の三月で終わりを迎えました。


2023年4月2日

先日、家族のLINEグループにある写真が送られてきました。

最初に見たときは、思い出深いグラウンドでボールを蹴ろうと多くの人が集まったんだと思いました。

先日、母と電話をしたときにふと気になって聞きました。みんな集まって楽しそうだね、どうしたの?って。

母の口からは、予想外の返事が来ました。


あれ、卒業生の父母が主催したアッパ(父)のお疲れ様会だよ。


衝撃でした。あの数の人達が父のために集まったなんて。


父がどれだけ愛されてきたか、あの写真が表していると思います。
13年もの長い間、学校のため、子供たちのためにサッカーを教え続けた父だからこそこんなに集まったのかなと思いました。


当日はみんなで楽しくサッカーをし、七輪を囲んで焼肉をしたそうです。父は泣いてしまったみたいで。笑いも涙もあったいい時間だったそうです。



最後に

最近、講義でこんな言葉が出てきました。


「虎は死して皮を留め人は死して名を残す」


父の名は書物に刻まれることはないでしょう。ですが、多くの人の心に残ると思います。(まだ全然元気です。これからも元気でいてね)





いままでも、これからも。私は父を誇りに思います。


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