エントロピーは乱雑さの指標ではない
今日はエントロピーの話をしましょう。魔法少女まどかマギカのおかげか、理系ネタに過ぎなかったエントロピーという用語も今では人口に膾炙した単語のように思えます。
ところがエントロピーという用語を説明する際に乱雑さの指標と説明されることが多いようです。例えば散らかった部屋を指して「エントロピーが高い部屋」と言ったりすることもあるでしょう。
この理解は直観的で説明しやすく、また統計力学との関係においても誤りとまでは言えません。実際、熱という概念を空気の粒子の運動から説明した統計力学という分野があり、その粒子の運動からエントロピーを説明しようとする過程でエントロピー=乱雑さという説明が生まれてきたという背景があります。
しかしエントロピーと密接に関係した熱力学第二法則との関係ではやはりまだ不正確な説明と言わざるを得ません。また、上で少し触れた統計力学による説明には更に親元がいて、熱力学という現代でも物理学の基本原理といえる分野から生まれたのです。そしてエントロピーという概念もまた、熱力学の研究から生まれた概念です。
そこで本稿では、普段あまり語られない熱力学的エントロピーの意味について語りたいと思います。
永久機関はつくれない
エントロピーの概念、熱力学第二法則の意味を述べる前に触れておきたいのが永久機関です。永久機関とは外から何の力も加えずにほっといたら勝手に機械が動いてくれて仕事をしてくれるようなものを指します。これができたら電力も要らないし、何なら人間があくせく働く必要もありません。そして人類は文明が勃興してからかなりの長い間に亘って、永久機関の研究をしてきました。
実際には永久機関をつくることはできません。エネルギー保存則に反するからです。つまり外から何の力も加えないのに仕事をしてくれるような機関というのは、仕事をするのに使うエネルギーを誰も供給してくれないのだからいずれ停まるというのです。
ですがこれは逆に理解したほうが収まりがいいかもしれません。永久機関を作ることが出来ないのはエネルギー保存則に反しているからというよりも、永久機関が出来ない理由を探しているうちにエネルギー保存則が見つかったのだという見方です。あとから見つかったエネルギー保存則によって、ある種の永久機関については物理的におかしいということが共通認識として得られた、といった方が当時の目線に近いでしょう。
でもこんな永久機関はつくれそう
永久機関の存在はエネルギー保存則によって禁止されたかのように見えました。しかしこれは、ある種の永久機関を禁じただけにすぎません。人間のサボりたい欲求、もとい研究の情熱はすさまじく、ついにエネルギー保存則を破らずにつくれる永久機関も考案されたのです。それは熱エネルギーを使います。
なんと画期的な。
温度差を利用して推進する仕組みさえ出来ていれば、海水を冷やすことで熱エネルギーを獲得すればよいではないか、ということです。一見してエネルギー保存則にも反していないように見えますし、実際この機関が実現したとしてもエネルギー保存則を破ることはありません。律儀に10℃分のエネルギーを10℃分だけ推進力に変えるのですから何ら問題ないのです。
この際船の推進効率などというものは関係ありません。これが実現するなら巨大な船を造ってせっせと海水を冷やし、馬車馬のように働かせれば無限のエネルギーを取得することができます。
ところがこういった機関もやはり現実的にはつくれませんでした。
なぜか。なぜか作れないのです。何も悪いことはしていないように思えるのですが、どうしても作ることが出来ない。この理由を考えた先に科学の進歩があります。
クラウジウスの原理
エネルギー保存則は破っていない。ちゃんと熱エネルギーを運動エネルギーに変換しているだけ。それなのに何故かこの種の永久機関は作れない。
この疑問から熱というものの性質について研究が進みました。
そもそも何かを温めるのは難なく出来るのに対して、何かを冷やすのは難しいということに気づきます。
いや、その説明もやはり変です。湯気の立っているコーヒーは時間とともに冷めていきます。しかしキンキンに冷えたコーラはどんどんぬるくなっていきます。これは徐々に室温に近づいているようですが、どういった現象なのでしょうか?
このような現象には方向性がありそうです。つまりぬるいコーヒーが放置していても熱くなっていくことはないし、ぬるいコーラがどんどん冷えていくのも現象としておかしい。こういう自発的変化には方向性があるというところにポイントがありそうです。
この自発的変化についての法則をまとめたのがクラウジウスです。
この法則をクラウジウスの原理といいます。この法則に従えば、先程の例は次のように理解することが出来ます。
確かに成り立っていそうです。なぜそうなっているのかはよくわかりませんが(※1)、熱を使った仕組みについては、この自発的変化の一方向性に関する法則に立脚した理論を構築しなければならないようです。
トムソンの原理
クラウジウスの原理を一歩進めた法則があります。これは熱機関に関する法則です。
この法則をトムソンの原理といいます。これを熱機関との関係で次のように言い換えることも出来ます。
この熱機関に残った影響がどう悪さするかについては次節で詳しく説明します。
クラウジウスの原理とトムソンの原理は実は同値な命題で、どちらかが正しければもう片方も正しいという関係になることが証明できます。つまりクラウジウスの原理に納得して頂けるなら、トムソンの原理もまた認めることができるのです。
ちなみにトムソンの原理を認めた副産物として摩擦現象が不可逆現象であることを証明することが出来ます。
永久機関を論破しよう
この2つの原理を用いて、最初に呈示したエセ永久機関を論破してみましょう。トムソンの原理とクラウジウスの原理の両方を使います。
以上の原理から海水を用いた永久機関を否定することが出来ました。
この類の、熱力学的な原理を用いてエネルギー保存則の穴を衝こうとする永久機関を第二種永久機関といいます。この第二種永久機関もやはり実現することは不可能とされています。
反応には方向性がある
ここまで熱力学の原理を用いて永久機関を否定し続けてきました。
ではなぜどうしても永久機関が作れないのかということを考えるとある一つの法則にたどり着きます。
すなわち、自発的反応には方向性があるということなのです。正確には孤立系・断熱系において不可逆な過程が存在すると言い換えられます。
断熱系とは外からエネルギーを受け取らない仮想的な箱を考えて、その中にある物について考えるということを意味します。例えば熱いコーヒーを外の世界と熱的に遮断した箱に入れて、その中での変化を見てみましょう。もし箱に対してエネルギーを与え続けることができるならコーヒーは熱いままですが、いまはエネルギーを遮断しています。そうすると熱いコーヒーはその箱の中の空気を温めた後、自らは冷めてしまいます。
この過程は明らかに不可逆です。つまりコーヒーの周りの空気から熱を奪ってコーヒーが熱くなる、などということは絶対に起き得ません。
おまたせしました。この不可逆性の指標・自発的反応の方向性の指標がエントロピーなのです。
断熱系の中でコーヒーが冷める過程において、箱の中のエントロピーは増大します。このエントロピーという量は断熱系においては増える一方で、自発的に減ることはありません。すなわち、自発的反応には方向性があり、エントロピーの増大する方向にしか進まず、自ずからエントロピーの減る方向へ反応が進むことはありえない。とまとめることが出来ます。
言い換えると、自発的反応には不可逆性があるという現象を、断熱系において不可逆な反応が生じた場合にエントロピーは増大すると言い換えることができます。これを熱力学第二法則といいます。
外からエネルギーを加えないなら行ったきり元に戻すことができない操作が存在し、いまやろうとしている操作が元に戻せるか戻せないかはエントロピーの増減を見ればわかるという指標として役に立ちます。
もしエントロピー計が開発されたら、その数値が上がっていく方向には行くけど下がる方向の反応はしないということがわかります。
つまりエントロピーとは不可逆性の指標であり、自発的反応の方向性の指標なのです。最初に呈示した船の永久機関についても、エントロピーを計算するとどこかで増大しているということがわかります。とすると熱機関をリセットするには外からエネルギーを加える必要がありますから、永久機関としては成立しないことがわかります。
ところで乱雑さとエントロピーの関係は?
ここまで記事を読んで来た方々の中には「乱雑さという言葉が出てこない」と思われている人も多いでしょう。
実際、これまで説明してきた熱力学的エントロピーの説明には乱雑さという概念を導入する必要は一切ありません。そしてエントロピーの意味の本家本元は熱力学から来ているのですから、やはり乱雑さという概念を敢えて使う必要はないのです。
とはいっても全く関係ないわけではありません。これもまた自発的反応の不可逆性と結びつけることが出来ます。
例えばきれいに整頓された部屋から散らかったゴミだらけの部屋には自然と移ろいゆくでしょう。ところが、ゴミだらけの部屋に住んでいていつの間にかきれいさっぱり整頓された部屋に戻ることはないと言ってもいいのではないでしょうか。ここでも自発的反応の不可逆性がはたらいており、
という関係が成り立っています。
これだとまだ比喩の範疇を超えないと思うので説明を付け足しましょう。
コップの水の中にインクを垂らすと、そのインクは徐々にコップ全体に広がります。これは自発的反応と言えるでしょう。しかしコップ全体に広がったインクが自発的に一箇所めがけて移動することはありえないのがわかると思います。この現象をとってみても
という関係が成り立っています。
もしインクを垂らした瞬間よりもインクがコップ全体に広がっている方が乱雑だ、というのであれば、たしかにエントロピー増大の法則は乱雑さの増大と言えるかもしれません。
しかし、乱雑さという言葉はこのような比喩的な説明に使われるにとどまっています。2つのコップを見比べてどちらのエントロピーが高いかという議論をする際に、「どちらが乱雑か?」ではなく「どちらからどちらであれば自発的に変化しうるか?」という思考を経なければ、エントロピーを理解することは出来ないのです。
外からエネルギーを加えないなら
ところで、しつこく外からエネルギーを加えないならとか断熱系ではと断ったのには理由があります。すなわち、外からエネルギーを加えることができるなら局所的にエントロピーを減少させること自体は可能だからです。
エントロピーは絶対に上がり続けて下がることはない、という勘違いは多いので注記しておきます。
ちなみに冷蔵庫やクーラーは電気エネルギーを用いて室内を冷やす操作ですから、局所的に気温が下がると同時にエントロピーも減っています。これが可能なのは外部から電気エネルギーを与えているからです。
これは熱力学第二法則と矛盾しないのでしょうか? この場合、電気エネルギーを供給している発電所まで含めた大きな仮想箱を用意してやれば解決します。この巨大仮想箱の内部と外の世界とはエネルギーのやりとりをしないとすれば、巨大仮想箱を断熱系とみなすことができます。そうしてみると、中で石油や核燃料を燃やして発電し、そのエネルギーで冷蔵庫を冷やすという過程でエントロピーは増大します。
もっと大きなことを言えば、地球全体とか宇宙全体のような大きな仮想箱を考えてもいいでしょう。この仮想箱の中は断熱系ですから、エントロピーは増大し続けます。
乱雑さという言葉に騙されるな
以上、乱雑さという単語を一切使わずにエントロピーの説明をしてきました。実際には反応の不可逆性や自発的反応の方向性についての用語だったのですね。
ところで、私はなぜ乱雑さという言葉を使うことを避けてきたのでしょうか。それは単純な話です。乱雑さという言葉をきちんと定義することができないからです。
科学用語を正確に使うには、その指すものが明確でなければなりません。ところが乱雑さという言葉は曖昧で、部屋がなんとなく汚くなっていくイメージや、水の中に垂らしたインクが拡散していく様子を思い浮かべるに留まります。2つの部屋を見せて、どちらがより乱雑であるか定義できるでしょうか? あるいはインクを垂らしたコップの水を2つ用意してどちらがより乱雑であるか示すことはできるでしょうか?
この点、不可逆性の指標というのは一歩明快になります。繰り返しになりますが、反応には方向性があり、ある2つの状態を見せられたときにAからBには自発的に進むが、BからAには自発的に進まないということがわかります。このことを用いてBの方がエントロピーが高いのだと明快に主張できます。
乱雑さという曖昧な言葉を用いた説明が広く知られているのは少々残念なことです。実はこの乱雑さという言葉も統計力学的エントロピーの導入によって説明することは出来るのですが、まだ曖昧です。この概念によっても、乱雑な部屋を2つ見せてどちらのほうがエントロピーが高いかという質問に答えられません。
熱力学的エントロピーについては断熱系において不可逆な反応においてはエントロピーが増大するという熱力学第二法則そのものの理解を深めることで理解が進みます。今後エントロピーについて人に説明するときには「自発的反応には方向があるんだよ」という話をしてあげてくださいね。
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