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第四十九話 お遍路を行く

こんばんワイパー
32歳男性です。

お遍路


古来、四国は国の中心地から遠く離れた地であり、様々な修行の場でありました。讃岐でご生誕されたお大師さま(弘法大師・空海)もたびたびこの地でご修行をされ、八十八ヶ所の寺院などを選び四国八十八ヶ所霊場を開創されたと伝えられております。そのお大師さまの御跡である八十八ヶ所霊場を巡礼することが遍路です。当初の遍路は、修行僧などが中心でした。その後、お大師さまに対する人々の信仰(弘法大師信仰)の高まりと共に、日本全国から多くの方が遍路されたといわれております。そして、お大師さまのゆかりの地として、誰しもが一度は訪れたい霊場として発展していきました。

https://88shikokuhenro.jp/ohenro/

ふむふむ。

実際にお寺を回っていると思うところがいろいろある。

ワイパーは特定の信仰は持たないものの元々信心深い方ではある。

ギャンブルでタコ負けし続けて
神も仏もあったものではない!!と人生で散々思ってきたが、
むしろタコ負けし続けてもこうやって生きていること、多くの人に助けられ導かれていることを思えば、むしろ神も仏もいる。

いや人の思いこそ神や仏なのかもしれない、とも思う。

神仏自体人間の生み出した救済のための心の拠り所であるとも思うが、
その多くの人間の心の拠り所が集まった結果、宗教というものは生まれるし、古来から現代に至るまで多くの信仰を集め残っているその存在自体が神仏であるとも思っている。

いわば、人間が徳を積み善行を行うための集合知であり、同時に人類の叡智であると思う。

人の思いは強い。

どのお寺を回っても絶対に巡拝者がいる。
お寺も立派なものばかり。

こんな平日のど真ん中でも人がいる。それも遠い過去から現代に至るまでそして未来に至ってもいるのは間違いない。

八十八箇所のお寺だけにあらず、全国の寺院、もっと言えばキリスト教もイスラム教も聖地があり、人は祈る。

その神仏に捧げる祈りこそがまた神仏なのかもしれない。

心を洗い、善く生きるにはどうすればいいか。

それはさまざまな宗教の開祖が至った境地であるし、その思いを受け取ってきた先人たちの思いであり、それを教えとして学び身に受け取ることが善く生きるということにつながるのだと思う。

話は戻るがここでお遍路の心得として必要な十善戒と三信条を転記する。

十善戒

不殺生(ふせっしょう)…生きている全ての命を大切にしむやみに生き物を傷つけない。
不偸盗(ふちゅうとう)…ものを決して盗まない。
不邪婬(ふじゃいん)…一人の相手を大切にして、不倫や浮気をしない。
不妄語(ふもうご)…人にうそをつかない。真実を話す。
不綺語(ふきご)…ものごとを大げさに話たり、余計なことを触れ回らない。
不悪口(ふあっく)…人の悪口をいわない、乱暴な言葉を使わない。
不両舌(ふりょうぜつ)…人を仲違いさせたり、陥れるようなことは言わない。
不慳貪(ふけんどん)…強欲にならず、感謝の気持ちをもつ
不瞋恚(ふしんに)…怒りを抑え、穏やかな気持ちで過ごす
不邪見(ふじゃけん)…人の道にはずれるような間違った考え方は捨てる

https://ohenro.konenki-iyashi.com/category2/entry7.html

三信条

1.摂取不捨のご誓願を信じ、同行二人の信仰に励む
「お大師様は決して私たちを見捨てない」ということを信じ、信仰し続けること。
「悩めるもの、苦しむものが一人残らずいなくなるまで見捨てない」という大師様の教えを信じる者は、全て尊い存在であると思うこと。
2.何事も修行と心得て、愚痴、妄語を慎む
四国お遍路の最中に経験することは、全て修行。
苦しいことも悲しいことも、全て自分に与えられた試練と考えて、心を平穏に保つ努力をし、不平や不満、虚言を吐かないこと。
3.現世利益の霊験を信じ、八十八使の煩悩を消滅させる
現世で受ける利益とは、富や栄誉ではなく、この世で受ける「仏様の恵み」にあります。
いくらお金持ちになっても、偉い人になったとしても、欲望を満たして幸せになれるわけではありません。

https://ohenro.konenki-iyashi.com/category2/entry7.html

正直、めちゃくちゃ耳が痛い。
人間として誠実で生きるためには当然のことではあるが、それを実践できているかどうかといえばなかなかに難しいことも多いのではなかろうか。

現世利益が仏の恵みということは人の道に外れないよう生きること、つまり公明正大であり、誠実な人間となれることこそが恵みであるだろうか。

とすれば、心に栄養を与え、人としてちゃんとすることが恵みであり
その道中はそういったことを考える修行ということであろうか。

念ずれば花ひらくと書いてあったお寺があったが念じる、祈るという過程で心の平穏を手にしていけば、いつかは悟りの境地に辿り着く、望みは叶うということだろうか。

ということを考えるということ自体が自分に足りていないものなのだと思う。

まだ道中ではあるが、残りのお寺も心を平らに拝みたい。



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