思想とビジネス

木村政樹『革命的知識人』を読んだ。木村氏の主張は次のようなもの「日本の左翼インテリは「現実を変革しようとして挫折→その敗北の物語を語ることによっておのれの言説を組織する」ということをくり返してきた。どうしてこういう言説構造が生まれたのか」

「負けて、美しい文学≒言論が残る」という構造を脱却しないと、現実の変革は可能にならない。そういう問題意識から、伝統的な左翼知識人のありように批判的なメスを入れたのが木村氏の研究だ。

「美しい志を抱いて、戦士たちは難局に死力を尽くして立ちむかった。彼らの戦いは現実に跳ねのけられたが、彼らの素晴らしい闘志はわたしたちの心のなかに生きている」―森保ジャパンを賞賛するディスコースと、左翼知識人の挫折の物語は、構造が同じだ。

伝統的な左翼知識人と、森保監督は究極の価値観がたぶん似ている。戦果をあげることよりも、じぶんが無謬でかっこいいことが大事という。

日本代表サッカーでいえば、今から4年後までのあいだ「敗北の物語」について話が尽きないことを、メディアも国民も期待している。
→2大会連続でベスト16止まり、ベスト8進出できなかったことで描かれる「ベスト8の夢」。それ語る機会を今回得たと思っている
→クロアチア戦の敗北に、どこか有り難さを感じている

負ければ引き続き4年間「夢」を見れるが、勝てば現実に進んでしまうために、敗北の物語は終了してしまう。

メンヘラの種類でいったら、いわば、劇場型のナルシシズムだ。魯迅『阿Q正伝』の阿Qは、集団から殴る蹴るされたあとに地面に倒れ、自分ひとり取り残された状態から、自分の拳で自分を殴り、「自分があいつらをやっつけたんだ」と勝手な思い込みをはじめる。負けを負け以外のものに変換するための「劇場」を展開させる。

アメリカは「赤狩り」の時代を経て、共産主義者が一度社会から排除されているので、そうした被害者意識が他より低めなのかもしれない。推測だが。

日本の「ダメ左翼」は、「制度を変えないと状況は改善しない」とつよく主張したいため、社会を構成する人間の主体的な工夫で今よりマシになることを全力で否定する。

たとえ制度がまちがっている場合でも、制度への批判はおこないつつ、制度が変わるまでは現行制度の下でよりマシで結果を出す工夫をするのが健全と思うのだが……。そういう提案をすると、「ダメ左翼」は「そういうことを考えるから悪しき制度が生きのびるのだ!」と批判してくる。

「ロマンティシズム=革命思想」物事を漸進的によくするのでは満足しない。一挙に世の中をひっくり返さないと気がすまない……。

ところが実際は「一挙にひっくり返したいひと」が、大きな変革を成し遂げたためしはほぼない。

これからは「情報を早くとること」よりも「骨太な政治哲学を持つこと」が、国家運営にもビジネスにも大事になってくる時代だ。


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