グールド

グレン・グールドはピアノのまわりでラジオを鳴らしたり、じぶんの音が聴こえない状況で弾いたりしていたらしい。そういうときがいちばん、じぶんの頭のなかの音楽をストレートに表現できるのだと。

「じぶんには聴こえないこそ純粋にわきでてくるじぶんのなかの音楽」は、たしかに「地下二階」からわいてくるものなのかもしれない。

グールドは、バロックや古典を演奏するときは、チェンバロの奏法を意識してスタッカートを多用する(バッハやモーツァルトの時代には、現代ピアノはまだ存在しなかったので、作曲家在世当時の楽器で演奏したのにちかい効果を、現代ピアノからグールドは引き出そうとした)

ピアニストにとって「ゴルトベルク変奏曲の解釈がむずかしい」というのは、現代ピアノでロマン派の曲を弾くときのような「けれん」を発揮する余地が、ゴールドベルグ変奏曲にはまったくないからだ。

おなじバッハの曲でも、半音階的幻想曲とフーガなんかは、ロマン派的な劇性があるので、「ダイナミックな盛りあがり」・「演奏技術の切れ味」で観客を圧倒できる部分があるのだが、極めて抽象度の高い構築力みたいなものが、ゴールドベルク変奏曲の演奏にはもとめられる。

数学の証明について「このやりかたはエレガント」と評したり、物理学者が「この実験の数式は美しい」といったり、将棋のプロが「この棋譜はとても筋がよくて格調たかい」と述べたりする。そういう「抽象的論理の美」を表現できないと、ゴールドベルグ変奏曲は弾きこなせない。

久しぶりにグールドを聴き、なるほど、ライブをしない人だったのだと思い知った。緊密な音の連続がどう成り立っているのか。

空間を完璧にコントロールするヨーロッパの庭園と、借景を重んじる日本庭園の相違を思い浮かべるなど。

聴衆論でいえば、カラヤンとバーンスタインのちがいがある。

小澤征爾は村上春樹との対談本のなかで「カラヤンは、オーケストラに無理を強いて場合によっては破綻をきたすことも厭わずに、じぶんの目ざす方向に音楽を誘導しようとしていた。バーンスタインは、オーケストラのノリにまかせるようなところがあって、カラヤンほど明確に方向性を打ち出すタイプではなかった」といっている。

カラヤンはいろいろいわれたが、ヨーロッパ美学の正統な継承者だった。

物事の価値を追求するプロセスにおいて「破綻してもいい」と思っているきらいがあり、これが欧州と日本の文化的感覚の違いだと思う。

「破綻」は、一度で「おじゃんになる」こととして、欧州人は見ていない。折り込み済み、と見てるきらいがある。

指揮者のみならず、奏者たちの感覚も、国や民族によって異なる。

野球もそうだが「一球入魂」する(ピッチャーでいえば)日本の感覚は、しばしばスローガンになり、国内で最もしっくりくる。

米国の大リーグで、そういう理屈を誰かが口にする話は聞いたことがない。

故障者リストに入った選手がどうやって試合復帰するか(一旦「破綻」してから)の話は、しばしば耳にする。


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