宮沢賢治
宮沢賢治の作品において、登場する動物たちは完全に擬人化されておらず、動物のまま登場している。
あの動物たちのわかりにくさ、不思議さ、わけのわからなさ、は動物のままに登場しているからだ。
動物たちは他者性を帯びて、登場している。これが宮沢作品のわかりにくさ、その裏腹の魅力になっているのだろう。
宮沢作品においては、登場する者たちがそれぞれ、自分のルールを持っている。一つの価値観に統一されていない。それで、きわめて多声的な文学空間ができている。
宮沢賢治の物語からは「妙な声」が響く。
宮沢賢治の描く動物たちは、読む人にシンプルに親しみを与える類いとは違う。
「けもの」たちの世界を、人間にとって親和性が高いものとして描いていない。
捉え方次第では、かなり不気味なものだ。山の奥の奥、人間の気配がまったくしない林や森の暗がりの世界。
宮沢賢治にとって、岩手県の農民がふつうに「他者」なのだろう。動物を賢治が擬人化しないのは、一般人に対する違和感を「擬獣化」して表現しているからではないか。
「注文の多い料理店」で山猫と犬が闘わないのは、賢治にとって山猫と犬が裏表だからだろう。
「自分にはコントロールできないが、プロ猟師なら(自分以外の人間なら)コントロールできる他者性≒犬」
「プロ猟師のような「他者性を馴致できる人間」がいないところで、直面してしまった他者性≒山猫」
※ゆえに「犬」がいる状況では「山猫」は存在しえない
つまり「注文の多い料理店」は、「ジュラシックパーク」だ。
「他者性=自然」を「金で買ったノウハウ」で飼いならしたつもりになっていた紳士が、「他者性=自然」の暴走に直面してパニックに陥る話。
命が助かって「他者性=自然」の猛威にじかにさらされない「安全地帯」にもどってきても、紳士はもう、無邪気に「他者性=自然」を享楽できない。
その紳士の様子を「自分たちの思いあがりの罰を受けた」とみるか、「倫理にめざめた」とみるかは、まったく重要なちがいではない。
(「変化」を「成長」ととるか否かは、変化した主体の問題ではなく、その変化をみている側の価値観の問題なので)
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