漢文

入谷仙介の『近代文学としての明治漢詩』に、「谷崎は漢詩文をかつて支えていた士太夫的メンタリティとは無縁、徹底して商人的なひとだった。いっぽう芥川は、漢文的バックボーンが骨まで染みついていて、実士太夫的メンタリティをたっぷりもっていた。だから中国のことも、谷崎はこれをエキゾチックな消費の対象とすることができたが、芥川はアンビバレンツな感情を中国に対して抱かざるを得なかった」という意味のことが書かれている。

漱石や芥川は「近代日本に、かつての漢詩文にかわるものがないこと」に悩んだけれど、谷崎はそんなことに悩む必要がぜんぜんなかった。だから谷崎は漱石がきらいだった。

谷崎と芥川の中国体験の違いについては、入谷仙介より斎籐希史の『漢文脈と近代日本』が詳しい。

芥川は中国へいって、それから心身不調になり回復しなかった。「中国体験」が、芥川の後半生を大きく左右したのはたしかだ。芥川は中国に行き、漢詩文を通して想像していたパラダイス的中国と、現実の中国のギャップにショックを受けた。

中国の共産主義運動の幕開け(1918)の3年後、孫文による国共合作(1924)の3年前、中国共産党の黎明期と共産党が「求心力を高めた時期」のちょうど真中(1921)に芥川は訪中している。芥川は共産党の闘士にも会い、帰ってから、桃太郎を書いている。

日中が関係悪化する、張作霖爆殺事件(1928)と満州事変(1931)を待たずして亡くなっているため、芥川が生き続けていたら、かなりオピニオンリーダーになっていたかもしれない。

そして谷崎は芥川の35年の人生を、自身の創作の肥料にした。谷崎の短編「麒麟」は、漢文を見事に消化してみせた。

谷崎の「麒麟」に出てくるのは、漢文の故事でも有名な場面。史記「孔子世家」でも山場で、孔子側ではなく、仁義よりも色を好む、霊公・南子側目線で描いているのが、谷崎らしい。

これからの漢文の役割とは何か。現在における漢文の位置付けとは。和文の思考では表現できない文学があり、漢文のグローバルな精神はこれからの時代を生きるのに日本が必要としている。

ただし、漱石の時代とは同じにはできない。敗戦から高度経済成長、情報革新にグローバル化。(コロナが収束すれば)本場中国にも簡単に行ける。中国も、古典全否定の激動を経て変わった。共産党中国が、中国古典をいまどう扱っているのか。

「現代に生きる意味」を見失わないようにしながら漢文と向き合う。



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