政治権力と社会的知識の相補性
政治権力と社会的知識は相補的である。権力が強くなるほど、自由で批判的な思想とその表明は抑制され、最終的には知識が破壊される。たとえ善意であっても、集権化が必要な政治改革の企ては、個人の違いを無視することで問題を単純化し人々の関心や信念を統制しようとする。(カール・ポパー(1902-1994))
「全体論的計画に科学的方法を取り込むことには、これまで示してきた以上に根本的な部分 で難点がある。全体論的な計画を立てる者は、権力を集中することは容易であっても、多くの 人々の頭の中に散らばった知識を集積することは不可能であるという事実を見逃している。し かし、集権化した権力を賢明に行使するには、こうした知識の集積が不可欠なのである。 この事実は重大な帰結をもたらす。全体論的計画者は、これほど大人数の頭の中を確認でき ないため、個々の違いを無視することで問題を単純化しようとせざるをえない。教育やプロパ ガンダを通じて、人々の関心や信念を統制し、ステレオタイプ化しようと努力するしかないの である。しかし、人の心に権力を振るおうとするこの試みは、人々の本当の考えを見出す最後 の可能性も、必ず潰すことになる。そうした試みは、思考の、とりわけ批判的な思考の自由な 表明とは明らかに相容れないからである。最終的に、それは知識を破壊する。手にする権力が 大きくなればなるほど、失われる知識も大きくなる(つまり、政治権力と社会的知識は、ボー ア的な意味で「相補的」に見える――最近よく使われるけれども意味のつかみにくいこの「相補 的」という言葉を、これほどわかりやすく説明する例はほかにないかもしれない)。 以上述べてきたことはすべて、科学的方法の問題に限定した話である。そこには暗黙のうち に、計画を立てるユートピア主義的工学者――少なくとも独裁権力に近い権威が与えられている ――の基本的な善意に疑問を呈する必要はないという途方もない前提がある。」
(カール・ポパー(1902-1994),『歴史主義の貧困』,第3章 反自然主義的な見解への批判,24 社会実験の全体論,pp.154-156,日経BPクラシックスシリーズ(2013),岩坂彰(訳))