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道具主義的な計算規則と理論との違い

理論は、普遍的に成立する真理を探究し、真理は想像を超える未知の出来事を予測できる豊かさを持ち、経験の理解を助ける。予測は有用なだけでなく、偽なる理論を排除するために必要なものと考えられている。(カール・ポパー(1902-1994))



 「さて、これから理論家のアプローチと道具主義者のアプローチの違いをあきらかにし、理論と計算規則の違いをあきらかにする10の論点を述べてみよう。
 (1) 理論の論理構造は、計算規則の論理構造とは異なる。また、二つ以上の理論体系間の論理関係は、二つ以上の計算規則の体系間の論理関係とは異なる。そして、一方の理論と、他方の計算規則のあいだの関係は対称的ではない。
 この点を十分に論じなくても、理論は演繹体系であって、どこでもいつでも成り立つことを推測として主張している、と言っておくことはできる。計算規則は表のかたちで表わせるが、限定されたじっさいの目的を念頭において組み立てられている。だから、低速の船舶にとって役に立つ航海上の規則は、高速の航空機にとっては役に立たないかもしれない。(たとえば、航海の)計算規則は、(たとえば、ニュートンの)理論にもとづいているかもしれないが、逆にどんな理論も計算規則にはもとづいてはいないのである。
 しかしながら、この議論ではまだ決定的ではない。理論はそれ自体は栄誉ある計算規則のようなものであり、それは上位の規則として使われて、より特殊な計算規則を引き出すのだと、依然として言われるかもしれない。
 (2) 計算規則は、ただその有用性のためにだけ選ばれている。理論は偽であるかもしれないが、それでも計算という目的にとっては役に立つかもしれない。たとえば、ニュートンの理論とか、ニュートンの理論と電磁波にかんするマクスウェルの(ヘルツの)理論との連言は、反証されていると考えることができる。それでも、航海に使われている計算規則(航海のレーダーも含めて)はこれら二つの理論を基礎にしつづけるべきではない、と考える理由などどこにもない。
 (3) 理論をテストするときは、それらを反証しようと試みなければならないが、道具を試すときには、その応用可能性の限界を知るだけでよい。理論が反証されれば、いつでもよりよい理論が探し求められる。しかし道具は、その応用可能性に限界があるからといって、拒否されたりはしない。そうした限界が見つかることは予想されていることである。機体の「破壊テスト」がおこなわれた場合、破壊に成功したからといって、その型の機体がテストのあとで放棄されたりはしない。もし放棄されるとすれば、それは、その応用可能性の限界がほかの方の機体よりも狭かったからであって、たんにそうした限界があるからではない(普遍理論であったら、こうした理由からだけでも放棄されるのだが)。
 (4) 理論の応用はテストと見なせるが、期待した結果をうみ出すのに失敗すれば、やがて理論の却下へといたるかもしれない。だがこのことは、ほとんどの場合、計算規則やそのほかの道具にはあてはまらない。なんらかの失敗(たとえば、航空上の伝統的な航空規則の失敗)は、そうした規則がある一定の領域に適用可能だろうという理論的推測の却下につながるかもしれないが、それらの規則はほかの諸領域で使われつづけるだろう。(一輪の手押し車は、トラクターと並んで生き残るだろう。)
 (5) 一方で理論はますます一般化し、他方で(コンピュータも含めて)道具はますます特殊化するとうはっきりとした傾向がある。この後者の傾向は、道具主義によってあきらかにすることができる。実用的な観点からは、道具は手もとの特殊な目的にとってもっとも便利なものであることが望まれる。だから、理論家の関心と目的は、コンピュータ・エンジニアの関心と目的とは異なるだろう。
 (6) 興味深いのは、目のまえに二つの理論があって、実際的な応用が予測できるかぎりでは、いまのところ、両者の区別がつかないといったケースだろう。道具と計算規則は、ある与えられた適用領域のために設計されているからである。だから、「適用の容易さ」といったほかのことは等しいとして、二つの理論がその適用領域で同じ結果をもたらすなら、道具主義者は、それらは等しく役に立つと言わざるをえないことになる。だが、理論家は別なふうに考える。もし、二つの理論が論理的に異なっていれば、理論家は異なった結果が生じるような適用領域を《見つけ出そう》とするだろう――たとえ、だれひとりとして以前にその領域に興味を示さなかったとしても。理論家がそうしようとするのは、それによって二つのうちの一方を反証する決定的実験が得られるかもしれないからである。そのようにして、経験の新しい領域――以前にはだれも考えもしなかった領域――が理論によって開かれるかもしれない。もっとも、理論のこの(知的な)探検機構は、理論とは(探検船や顕微鏡のように)探究の道具だと言いつくろわれるかもしれない。《だがそうであるなら、探究すべき実在があることを認めなければなるまい。そしてもしそうなら、それは真か偽として記述できる》――これは、まさにバークリー流の道具主義が否定したかったことである。」(中略)「
 (7) このことによって、二つのタイプの予測(あるいは「予測」という語の二つの意味)のあいだの重要な区別が導かれるが、道具主義者にこの違いを認めることができないのはあきらかである。ひとつのタイプは、たとえばつぎの日食――それが見える時刻や位置など――の予測とか、あるいはメンデルの栽培実験におけるさまざまな色のえんどう豆の数などの予測である。一般的に言うと、既知の種類に属する出来事の予測である。もうひとつのタイプは、新しい理論が形成されるまでは、決してまともに考えられもしなかったような種類の出来事の予測である。それは、生じうることがいわば理論から教えられるような出来事である。」(中略)「この種の予測は、ある新しい理論からたびたび生じるが、それは理論の発明者にとっても思いがけないことなのである。発明者は、たんに既存の理論にあったいくつかの困難を取り除こうとしただけだからである。新しい理論は、新たな予期しなかった事実の世界を開いてくれる――あるいはおそらく、古い世界の新しい側面を開いてくれる。だが、道具主義の枠組みで、むりなくこの状況に対処することは難しいだろう。
 (8) 決定的な問題は、言うまでもなく、理論には、道具としての能力を超えて、なんらかの情報内容があるかどうかということである。先の論点に照らしてみると、これはほとんど否定できない。というのも、もし理論から未知の種類の出来事についてなにか学べるならば、理論には(じっさいそうであるように)そうした出来事を《記述》できる能力がなければならないからである。」(中略)「
 (9) 理論は、計算規則とは反対に、経験を《解釈する》助けになる。」(中略)「われわれは、たえず理論によって経験を解釈している。ひどい味と臭いは腐った卵のせいだと解釈するし、横すべり――これは完全に理論的な用語である――は、自動車の異常で危険な動きを、地面とタイヤのあいだの摩擦が足りないからだとして《説明し》、解釈する。」(中略)「
 (10) バークリー以来、道具主義者は予測を、科学におけるもっとも実用的な課題のひとつと考えてきた。予測の実用的な価値ははっきりしており、道具主義がそれを正当化する必要はない。しかしながら理論家なら、科学にとっての予測の重要性を、予測が外から科学に課された課題と見なすことなく、自分自身のことばで説明することができる。理論家にとって予測が重要なのは、もっぱら、理論に対する予測の関係のためである。つまり、理論家は《真なる》理論を探すことに関心を払っているからであるし、《予測はテストとして役に立ち、偽なる》理論を除去するための機会を与えてくれるからである。」
(カール・ポパー(1902-1994),『実在論と科学の目的』,第1部 批判的アプローチ,第1章 帰納,12 道具主義批判、道具主義と帰納の問題,(上),pp.161-166,岩波書店(2002),小河原誠,蔭山泰之,篠崎研二,(訳))


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