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弁証法論理学の誤り

弁証法論者が主張する、進歩にとっての矛盾の重要性は事実である。しかし、発展を推進するのは、 観念のうちにある神秘的な力などではなく、ひとえに、矛盾を許さないという我々の決意、我々の決断で あって、それが矛盾を避け得るかもしれぬ新しい視点の探索へと我々を向かわせるからである。(カール・ポパー(1902-1994))

「弁証法論者たちは、矛盾は進歩にとって実り豊かであり、多産的であり、生産的であると いう。われわれも、これがある意味では真実であると認めた。だが、それが真実であるのは、 われわれが矛盾を許さず、矛盾を含む理論はすべてこれを変更すると――いいかえれば、矛盾を 決して容認しないと――決意する限りにおいてのみである。批判、つまり矛盾の指摘がわれわれ に理論を変更させ、それによって進歩を生じさせるのは、もっぱらわれわれのこの〔矛盾を容 認しないという〕決意に発するのである。  もしわれわれがこの態度を変え、矛盾をがまんする決心をすれば、矛盾はただちに一切の実 り豊かさを失ってしまう、ということはいくら強調しても強調したりない。矛盾はもはや知的 進歩を生み出さなくなるだろう。それというのも、われわれが矛盾をがまんする気になってし まっていれば、いくらわれわれの理論の矛盾を指摘されても、もはやわれわれを理論の変更に 向かわせることはできないからである。いいかえると、(矛盾を指摘することにある)批判 は、ことごとくすべて、その力を失ってしまうであろう。批判〔矛盾の指摘〕に対しては、 「なぜそれで悪いんだ」とか、あるいは、ひょっとすると、熱狂的に「そうだ、そうだ」とさ え、つまり指摘された矛盾を歓迎しさえする、返答がなされることになろう。  しかし、これは、われわれが矛盾をがまんする気になっていれば、批判ならびにそれととも にすべての知的進歩は終りにならざるをえない、ということを意味している。  したがって、われわれは弁証法論者にこう告げなければならぬ。君は両てんびんをかけることはできないのだ。実り豊かであるということで矛盾を重視するのであれば、君は矛盾を容認 してはならない。そうでなくて、君が矛盾を容認する気なら、そのときには矛盾は不毛であ り、合理的批判、議論、知的進歩はありえないであろう、と。  それゆえ、弁証法的発展を推進する唯一の「力」は、テーゼとアンチテーゼのあいだの矛盾 を容認しない、あるいは黙許しな、というわれわれの決意なのである。発展を推進するのは、 これら二つの観念のうちにある神秘的な力でなく、それらのあいだの神秘的な緊張関係でない ――発展を促進するのは、ひとえに、矛盾を許さないというわれわれの決意、われわれの決断で あって、それが矛盾を避けうるかもしれぬ新しい視点の探索へとわれわれを向かわせるのであ る。そして、この決意は完全に正当化できる。なぜなら、もし矛盾を容認すれば、いかなる種 類の科学的活動も断念しなければならなくなる、つまり、それは科学の全面的な崩壊を意味す るであろう、ということが簡単に論証できるからである。この点は、《もし二つの矛盾する言 明が認められるとなると、どんな言明でもすべて認めなければならなくなる》、なぜなら、一 組の矛盾する言明からはいかなる言明でも妥当に推論できるからである、ということを証明す ることによって明らかにできる。」
(カール・ポパー(1902-1994),『推測と反駁』,第15章 弁証法とは何か,第1節 弁証法の解 明,pp.585-586,法政大学出版局(1980),藤本隆志(訳),石垣壽郎(訳),森博(訳))


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