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理論は実証できない

観察が「知識の源泉」であると主張する知識論は、誤りである。また、論理的思考、知的直観、知的想像力なども、重要なものではあるが、理論が真であることを約束してくれるわけではない。(カール・ポパー(1902-1994))


 「さて、ここでこれまで論じてきたことを、8つのテーゼのかたちにまとめてみましょう。
1. 知識の源泉などありません。どんな源泉でも、どんな提案でもよいのです。けれども、いかなる源泉、提案も批判的検討の対象になります。歴史的な問いを扱っているのでないかぎり、われわれの情報の源泉をたどるよりも、むしろ主張された事実そのものを検討すべきです。
2. 科学論の問いは、本来、起源とはなんの関係もありません。われわれが問うのは、むしろ、ある主張が真であるかどうか――すなわち、それが事実と一致しているかどうかということです。
 そのような批判的な真理の探究の途中では、可能なかぎりのあらゆる議論が利用されます。もっとも重要な方法のひとつは、われわれ自身の理論に批判的に対峙し、とくに理論と観察のあいだの矛盾を探すことです。
3. 伝統は――生まれつきの知識は別にして――はるかに重要な知識の源泉です。
4. われわれの知識のかなりの部分が伝統に基づいているという事実は、伝統に反対すること、つまり反伝統主義の立場にはなんら意味がないことを示しています。しかし、だからといって、これを伝統主義を支持する根拠と見なしてはなりません。なぜなら、われわれに伝えられてきた知識(そして生まれつきの知識)のどんなに小さな部分も不死身ではなく、批判的に探究され、場合によっては、くつがえされるかもしれないからです。しかしそれにもかかわらず、伝統なしには知識は不可能でしょう。
5. 知識は無――《タブラ・ラサ》――から始めることはできませんが、かといって観察から出発できるわけでもありません。われわれの知識は既存の知識を修正し、訂正することによって進歩します。たしかに、ある観察や偶然の発見によって進歩することは、時として可能ですが、一般的には、ある観察や発見の影響範囲は、それによって《既存の》理論を修正できるかどうかにかかっています。
6. 観察も理性も、なんら権威ではありません。ほかの――知的直感や知的想像力などのような――源泉も重要ではありますが、同じく信頼に足るものではありません。それらはものごとをかなり明らかにしてくれるかもしれませんが、しかしわれわれを誤りへと導いてしまうかもしれないのです。それでも、これらはわれわれの理論の主たる源泉であり、そのようなものとしてかけがえのないものです。しかも、われわれの理論のほとんど大部分は、誤りなのです。観察と論理的思考、そして知的直感と想像力の重要な機能は、未知の領域に踏み込むために必要な大胆な理論を批判的に検討する際の助けとなるという点にあります。
7. 明晰さには、それ自体知的な価値があります。厳密さや精密さは、そうではありません。絶対的精密性など到達不可能です。問題状況が要求している以上の厳密さを目指すのは、意味のないことです。」(中略)「
8. ある問題の解決は、新たな未解決の問題を生み出します。この新たな問題は、もとの問題が難しければ難しいほど、また解決の試みが大胆であればあるほど、それだけいっそう興味深いものになります。世界のいろいろなものごとについて経験すればするほど、そしてわれわれの知識が深まれば深まるほど、《自分たちがなにを知らないのか》ということについての、つまり自分たちの無知についての知識がよりいっそう明確になり、はっきりと描き出されるのです。われわれの無知の主たる源泉は、無知が必然的に際限のないものであるのに対して、われわれの知識には限界があるというところにあります。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第1部 知識について,第3章 いわゆる知の源泉について,pp.91-93,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))
(索引:理論は実証できない,知識論,論理的思考,知的直観,想像力)


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