母が亡くなった時の情景と心情吐露日記

どうも。
26歳の時母を亡くして、気持ちの整理をするのと忘れないために、母の亡くなった翌日に叩き込んだ日記です。
1年たったのと、なんと昨日(2023年11月28日)父が自宅で亡くなってしまい、とりあえず公開に踏み切りました。
父のことはまたキーボードに叩き込んで、自分の中で整理がついたら公開します。



2022年5月3日
昼から別の職場で出勤だった私は少し予定より遅れて家を出た。
その日はとても忙しくて、ばたばたとしていた。
その時、アップルウォッチに姉から母の容態が急変したと連絡があった。姉がすぐ病院に向かい、そわそわしながら仕事をしていた。
大量のコーヒー注文が入り、こなしているとアップルウォッチに姉から着信がきた。
今は出れないけど、母のことかな、折り返しするからとりあえず出ると、姉の泣き声とともに

「おかあさん、死んじゃった」

職場から逃げるように立ち去り、タクシーに飛び込んだ。
彼氏に電話をして、母の死を伝え、ひたすら泣きじゃくっていた。
窓を見ると、太陽がまぶしくて、空は青く澄み渡って、雲が白く分厚くて、いい天気だなと思った

母は肺結核だった。

(当時同居していた私と、定期的に会いに来ていた姉、兄は結核感染なし、2023年6月時点で異常なし。父は20年前に結核になり、菌保有はしているがまき散らしはしていない状態。一応注釈として入れておく。)

昨年の暮れあたりから、喉の調子が悪く、声が枯れて痰が絡みやすい日が続いた
病院嫌いな母は、市販薬で誤魔化していたが、段々と喉の腫れが増し、咳も増えて眠れない日も多くなった
私が病院に行くよう勧めると「まだいい」「大丈夫」と始まり、なお説得を続けると「病院に行けと言われるほうが具合が悪くなる」と
頑なに病院へ行くことを拒否し続けた。
この先が心配な私と、病院に行って何かがあったらどうしようという母の考えが上手くかみ合わず、
強い口論へ発展することも多かった。
ついには母が泣きながら「何度も言ってるのにどうしてわかってくれないの?」と訴えてくる日もあった
泣いている母を見て、どうして病院に行けというだけで泣いてしまうのか全く分からなかった。

3月末、病院に行く決心をした母は、姉と一緒に地元の耳鼻咽喉科へ向かった。
結果、大学病院への診断書を貰ってしまい、しぶしぶ行くと「喉のヘルペス」と診断。
抗生物質やヘルペスの薬を1週間分貰い、飲み続けた。
だが全く症状はよくならず、それどころか喉の腫れが酷く増し、飲食が困難になるほどだった。薬も飲みこみのが辛いと飲まなかった。

薬をきちんと飲まない母を見て、お薬カレンダーを用意し、
来週もう一度病院へ行くから必ず飲んでくれと頼んだ。
結果としては、まばらに飲まれた薬たちを見て、私はまた母に怒りを抱いた

どうしてちゃんと飲まないの?

効き目がないから飲みたくないのは普通なのだろうか。病院嫌いの母ならなおさらそう思うのは想像に難くない
だが私はそこまでの想像ができなかった。

再度大学病院で診察をし、声が出づらい母の代わりに私が症状を事細かに伝えた。
すると、顔色を変えた医師。
一度診察室から出され、しばらくするともう一度入室するよう言われ、入ると医師が二人に増えていた
喉のカメラを見て、新しい医師が
「お母さん、これ多分結核だよ」と。



(ここから2023年11月29日に追記した内容」↓)

待合室の喫茶店の横にある「応接室」に通され、ここでお待ちくださいと指示があった
学校の保健室みたいな簡易的なベッドと椅子があって、謎の機械がある静かな部屋
結果から言うと6時間近く隔離されていた。こっちが受付に文句を言いに行くまで誰も来なかった。
忘れられていたんだと思う、それか後回しにされすぎた。
先生が転院先を探しているから時間がかかっていると言ってきて、え?違う病院に移されてしまうの??と驚いた。

タクシーで遠い別の病院に向かわされた。救急車じゃない。
一時間以上タクシーで揺られた
母は「(本名)。ごめんね、こんな長い時間…」ぽつりと言った。大丈夫だよといった。正直疲れがピークになっていた。何も考えたくなかった

その病院につく頃には外は真っ暗になっていた。
病院の自動ドアをくぐり、受付も待合室も暗かったが、呼んだら男性が出てきて事情を伝えた。
車いすに母を載せて、待機していると看護師が来て、何と言われたかは正直記憶にはないが、
結核だからうろつくな、早くこっち来てくださいと、ばい菌扱いをされた。

こっちは何も説明がないまま長時間隔離され、ようやく到着したばかりなのに、本当に腹が立った。
母も怒っていた

そこからまた検査して、待って検査して。。。
気づいたら、母はこのまま入院、私だけ帰らされた
その病院で母は最後までばい菌扱いをされていて、ほんとうにかなしかった

それが母との最期の会話だった。
いってくるね じゃあね いってらっしゃい、きをつけて。

時刻は20時ころだった。母がいる病棟を見ながら、春の寒い空の下でタクシーを待った。
帰りのタクシーも一時間以上揺られて、疲れと車酔いで本当に気持ちが悪くて、ぐったりしていた。
見かねた運転手さんがエチケット袋をくれたけど、吐かないよ、と思いながら受け取った。

(ここまで2023年11月29日追記した内容↑)



母が亡くなっても、毎日が目まぐるしくて落ち着く間もない。
私は2週間近く休みをもらうことにした
早く働きだしたほうが気が紛れるのは、黒助が死んだときによくわかっている
別れを惜しむ涙は仕事から帰ってきて流せばいい
わかってはいるけど、どうしても心が追い付かない気がしたから、少しでも時間稼ぎじゃないけど、休むことにした

葬式は噂通り料金がとんでもない金額だ。正直葬式なんて遺された人たちのために行うもんだから、
そんなに大げさにやらなくてもいいのにな。お寺のお経なんて別にいらないよ
姉とオールナイトニッポンでも流しとけって笑いあった

父は眠れない日々が続いているらしい
両親は折り合いが悪く、喧嘩ばかりしている。何度も血を流しけがをし、子供は母を守り父を恨んだこともたくさんあった。
そんな父は母の死に非常にショックを受けている
意外だな と。
昔写真を見ていると、笑いあっている夫婦の写真も少なくはない。
両親の恋愛事情はわからないが、少なくとも4人子供を授かってここまでやってきている
お店をやっていたから、関係が今日まで保っていられたのもあるかもしれない
それ以上の愛もあるのかもしれない。
父にそんなことを聞けるわけもないので、想像上だけにとどめておく

母が葬儀場にやってきた。
病院で亡くなった姿はかなり衝撃的で、信じられない気持ちが多かったが
霊安室で眠っている母は、本当に寝ているみたいにいつもと変わらない様子で
姉も兄も私も安心した。
兄と部屋の片づけをした。あまり深く考えず、体がよく動く兄は率先して片づけを行ってくれた

母がよく言っていた。
「兄はよく頑張っている よくやっている すごい子だ」

あまり家のことに積極的にかかわってくれなかった兄を、よく思わなかった私はその言葉が意味が分からなかった。
なんもしてくれないじゃん、って。

今ではなんとなくわかる気がする

結核は国指定の感染症で、遺された家族は感染していないか、容態はどうだ、と定期的に病院で検査と保健所の観察が必要になる。
保健所から結核の話をされるたびに「結核は必ず治る病気です」と言ってくる。安心させるためだろう。
だが、実際母は結核で亡くなった。栄養失調もあるけど、結核菌のせいであることは明確だった。

そもそも最初の病院でヘルペスと診断を受けたことが間違っていると思ってしまう
あの時結核とわかっていれば。もっと早く病院に行かせていれば。
後悔をしては、病院に行くことを拒んだ母に怒り、病院に行ったから死んでしまったという後悔をして…
私が死ぬまで永遠にこの懺悔を繰り返すんだろう。

2021年には愛犬が亡くなり、2022年は母が亡くなった。
二人が虹の橋のたもとで待ってくれてると思うと、自分がいつか死ぬときもまったく怖くない。待っててくれる、会えるのが楽しみだから。
まあまあ時間がかかると思うけど、必ずそっちにいくからね。ゆっくりしてな。

そっちに行ったら、犬と寝て、母のサムゲタンを食べて、げらげらがははって笑って過ごしたいなあ
だいすきだよ。

20220504




以下、記憶整理中に感情に歯止めが利かなくなってそのまま書いた文章↓
お見苦しいです。

お母さんここまで書いたけどつらいよ
思い出すだけでつらいんだ
転院先でお母さんが担架に乗せられて
まるでばい菌みたいに扱われて 大きなカバーをかぶせられて
そのまま私たちは別れた切りだよ
私の腕を掴んでゆっくり歩いたお母さん
すごく痩せてて小さく感じた

初めて乗った車いす どうかと聞いたら
サイコーだねと笑ったお母さん
いつでも車いすなんか引いてあげるよ
私、お母さんと出かけたくて車の免許取ろうと思ったんだよ
何もかも遅すぎたのかな
あとからあとからになって ごめんなさい
もっともっと、私のお話を聞いて笑ってほしかったよ
お母さんに来てほしい洋服もたくさんあったよ

おかあさん
さみしいよ
こんな別れになるなんて 本当にさみしいよ
信じたくないよ

ごめんね 一人で死なせてごめんなさい
本当にごめんなさい
ごめんなさい

ありがとう いつも守ってくれてたくさんありがとう

わたしはお母さんの子供に生まれて幸せだよ

あんま

会いたいよ

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