さむいよね

自己肯定感 という言葉に日々悩まされながら生きている。
こんな厄介な言葉はいつ生まれたんだろうか、と日々考えながら過ごしている。
意識するからダメになるんじゃないのか 自分のことが受け入れられないのは誰のせいか 育った環境のせいか 遺伝なのか 傲慢なことに完全に自分のせいであるとは思っていない。ダメな自分がダメになってしまったのは私の努力だけではどうにもできない部分があったと思っている。

家庭環境
現在私の家に親は母しかいない。お父さんは死んだとかではなく普通に元気に生きているし、時々会うぐらいには私とお父さんは関わりを持っている。今でこそ家族は落ち着いているけれども、もういつぐらいか覚えていない、大雑把に言えば小学生の頃は悲惨だった。母はどういう流れかはわからないけどマルチ商法みたいなものにハマっていって私の家庭は荒れた。それから、その話とどっちが先かもそれが原因かもわからないけれど父は浮気をした。もう時系列なんて覚えてないけどだんだん家の雰囲気は変わっていって、ある日父と母が大喧嘩をして母が殴られたのを見たことを今でもはっきり覚えている。その時唇の震えがなぜか止まらなくて、私と真ん中の兄は泣いていたし、一番上の兄はなぜかどう森の攻略本をずっと読んでいた。母が携帯を置いて出掛けた夜に私は何も考えずに母の携帯をのぞいて母が弁護士に送ったメールを見て、父が浮気をしていたことを初めて知った。幼いなりにきっとこれは聞いちゃいけないことだと思って、つい最近になるまで母に知ってたことを言わなかった。母も私が知っていると思っていなくてとても驚いていた。
 DVに走ってしまう人は小さい頃親から暴力を受けていた、とかいう話がたまにある。その話を聞くたびに他人事じゃないなと思う。これは本当に嫌われそうで書くのさえ怖いけれども、自分は本当にイライラした時に物や何かに当たってしまいたくなる衝動が湧く時があるし、何よりそれが人に向いてしまうことがある。ひとしきりイライラしてそれが落ち着いた後にはいつも自分が怖くて嫌になる。怒りっぽいなんて言われたことがない、むしろ「あんまり怒らなそう」と言われることが多いのにこんなんだから、ストレスを何とか鎮めている内側の自分と比べて落ち込む。父のことは好きで、小さい頃からいろんなことを教えてもらった。芸術的な感性が少なくとも進学の関心がデザインに進むぐらいにまで広がったのは父のおかげによるところが大きいと思っている。でも人に手を出すのは何があっても許されない。大喧嘩の日から数年経った頃に「でもあれはお母さんも悪かったよ〜〜」みたいなことを言ってたことを覚えているけども今考えれば何を言っているんだと思う。歯が折れて大量に血が出て泣いている母の光景がいまだに忘れられないしそんなことをした人間に「でも〜」なんて言い訳をする資格なんてないよな。あの時の父は最低だったな。しかしまあ、おばあちゃんからずっと前に話を聞いた時、おばあちゃんが「じい(父の父にあたる)は昔ほんとうに暴力が酷くて〜...」ということを言ってた気がする。祖父の頃は時代のせいもあって当時はそれが普通だったというかあまり問題視されなかったのかも知れんけど、もしかすると父も祖父からそれを受け継いでしまった被害者(?)みたいなものなのかもしれない。話がずれそうだから元に戻すけどそんな感情が湧いてしまう自分が嫌になっていつまでも認めてあげられない。暴力を振る人間を見て怖い思いをした人間がなぜ暴力に近づいてしまうのか、自分はそんなこと絶対他人にはしないぞという理性が働かないのか。私の家庭で起こったことなんか軽いほうだったのかもしれないけれども、心の底から怖い思いをしたのに。

 家族仲が崩れる大きい要因を作ったのは母もそうだ。しかし父と別居が始まって私が小学生の頃、母はひとりで3人の子供を育てるのに疲れていたのかも知れない。母のことを考えると、あれは子育てのピークだったんかなと思う。
 最近まで母からの愛情を疑ったことは1度もなかったけれど、この前少しだけ昔のことを思い出して、あれはどうだったんだろう、と考えることがあった。私は小学校の頃、そろばんとピアノ教室に通っていて、終わりの時間はいつも19時や20時。小学生にとってはかなり遅い時間。ふつうとかいう言葉を使うのはよくないのかも知れないけれど、親が迎えに来るのがふつうだよなと今考えても思う。周りの友達はみんな親がお迎えに来ていたのに、私は来なかった。もう前のことすぎて曖昧にしか思い出せないけれど、「出来たら迎えに行く」と母は言ってた気がするし、私は毎回それに期待して自転車じゃなくて歩いてそろばん教室に行っていた気がする。それでそろばん教室が終わって外に出ると母はいなくて、私は泣きそうになりながら暗くて怖い道をひとりで歩いて帰った。期待した分苛立ちもあったし、過保護は嫌だけどここまで来るとどうでもいいのか私のことは、と本気で思った。「私が事故でお母さんよりも早く死ぬとして〜...」みたいな例え話をしたときに「嘘でもそんなことを言うな」と怒ってきたことがあったり、私自体を否定するような嫌な言葉を浴びせられた記憶もない。でも、傲慢なことを言ってしまうかも知れないけれども、今思えば母は行動で示す、みたいなところがかなり足りなかったんじゃないかと思う。夜はすぐにマルチ商法(?)みたいな人たちの集会に行ってしまってたし、お迎えも来ない(来れない?)ことがあったし、子供の頃の私たち兄弟はきっとほかの家庭に比べて親と過ごす時間が短かったと思う。もちろん母が私たち3人をひとりで育ててくれたことは凄いと思うし感謝もしてるけど、マルチ商法(?)にハマっていって私たちを置いて行ったことに関してはかなりの違和感を感じている。私の文章力ではほんとうにうまく言えないけれど、大きくなってからそれに気付いた。でも、そんな母に対する負の感情と、母にも逃げ場が欲しかったんかなあという同情みたいな気持ちもあって、わたしの心の中に混在している。それも私の心をぐちゃぐちゃにしている。

 円満な家庭ではそんなこと考えることすらないだろうなと思っては羨ましくなる。毎日毎日両親から当たり前に愛情を受けて、それをほかの人にも自然と向けることができる人になるんだろうな、とこれもまた自分と比べて悲しくなってしまう。みんながみんなそうなる訳はないのに。私にも小さい頃、そういう記憶は少なからずあって、週末は家族で手打ちうどん作ったり、たこ焼きしながらテレビ見たりしながらわいわいした。お母さんとお父さんの膝の上を行ったり来たりして、お父さんに秘密でお菓子を買ってもらった話をしてお母さんがお父さんを叱る流れ。夏には毎年島へ旅行してタコを獲って晩ご飯に食べる。そんな賑やかな生活が続けば今の自分と辿ってくるルートはかなり違うし、全然違う19歳の私になっただろうなと思う。過去のことなんか変えられないし、他人の家庭にもあるだろう苦労を何も知らないまま羨んでも怒られそうだけど、きっとこれからもそうやって自分の家庭にコンプレックスを抱いたままなんだろうな。この誰にも言えない自分の中の醜い劣等感みたいなものは一生取り除かれないのかな、と思いながら日々暮らしている。

容姿のはなし。
私は生まれつき髪の毛が少ない。その辺の小さい子供より全然少ないと思う。今まで出会ってきた人の中に私と同じぐらい髪の毛が少なくて悩んでいる人はいない。みんなが髪の毛を下ろしていても私はできないし、プールにも入れない。良くも悪くも小中の頃それを散々馬鹿にされたから。
いつ気付いたかはもう覚えていないけれど、気付いた頃にはもう心にトラウマみたいなものが染み付いていたし、一生人前で髪をおろすことなんてできないなと今でも思っている。親の前でも抵抗がある。
これについて文章を書くのも怖いぐらい誰にも話せずにいる。親だって髪が少ないものの私ほどではなく、気にするなと言う。私は朝に頭を洗って乾かし直さないといけない、母はそれほどではない。朝から時間をかけてセットして学校に行っても悲しい思いをする。顔の悪さなんてもはやどうでもいいほど髪の毛にコンプレックスを抱いている。成人式に行ってもそれを言われないか怖くて行きたくなくなっているし、普段からそういう目で見られていないか人とすれ違うたびに怖くなる。なんで私だけ。
 私の自己肯定感の低さは何よりこの髪によるところが大きい。私の努力だけではどうにもできないところがある。母は軽く捉えているけれど、私はこれのせいで何回死にたいと思ったかわからない。冗談ではなく、ほんとうに辛い。周りの人に言ってもきっと理解されない。誰かに伝えてもその人が当事者じゃない限り私の心が空っぽのまま終わってしまう未来しか見えてないから言えない。母に理解されなかった時もほんとうに辛かったな、母でダメならもう誰に言ってもダメだと思った。一生一人で抱えて生きていかないといけねえんだ〜〜と思った。思ってる。金輪際可愛いなんて言われても心の底から信じて嬉しいと思うことは無いんだろうなと思ういやそんなことはどうでもいいか。小中であんなに馬鹿にしてきた人たちはもうとっくに忘れてるんだろうな〜忘れてていいんだけど別に

 これといって学校の勉強にな〜〜〜〜んにも関心がなかった高校生のころから大学入ってから作品作りに打ち込むようになって、やりがいのあるものができてそれなりの充実感はあったけど、それ以外何もしてないからつまらん人間になってしまったな〜と思うようになった。もうわたし何をしてても完全に穴が塞がることはないんだな、と気付いた。いいアイデアが思い浮かばない時は苦しくて苦しくて消えたくなるし、辛うじて思いついた今でもなんとなく暗い気持ちで生きている。
 結局自分の性格の問題だったんだな、自己評価が無駄に高いせいで何をやってても自分を心の底から認めてあげることはできないんだ〜〜、こんなに自分を痛めつけてどうするん???と自分でも思いますがもはやどうすればいいかわからない、正直なところどれだけ幸せなことがあっても「生きてたくない」という気持ちは消えないんだなあ。こんな自分と付き合っていくことにもう疲れたな〜〜ゆるやかな希死観念を一生持ち続けている 普段の自分を知ってる人の誰にも言えないね こんなこと

自分を認めてあげるって何なんだろうね〜自己肯定感っていう言葉すら気にせずに生きられる人は羨ましいし凄いよ、自己肯定の低さに悩んだ上でそれを乗り越えた人はもっと凄いな 家庭環境や生まれつきのコンプレックスが原因だとか思っちゃうけれどそれを言い訳にして甘えてるだけなのかもしれない私はと思ってしまう時もあってもうどうすればいいのかわかんないや〜こんな自分でももしかすると何かのきっかけで現状から抜け出してこれから人生が良い方向に向かっていくのかも知れないという僅かな希望を抱いてしまっているからこれまた中途半端に生き続けてしまう。面倒臭いですね〜人間

変に書き殴ってしまったな
友達に話すタイミングもないからこんなん読んだらみんなどん引いてもう普通に接してくれなくなりそうだけどもわたし本当に毎日こんなことばっかり考えながら生きている 病院に行ったら何かしら病名が付いてしまうのかな

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