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終わりと始まり

終わりと始まり

戦争が終わるたびに
誰かが後片付けをしなければならない
物事がひとりでに
片付いてくれるわけではないのだから

誰かが瓦礫を道端に押しやらなければならない
死体をいっぱい積んだ
荷車が通れるように

誰かがはまりこんで苦労しなければ
泥と灰の中に
長椅子のスプリングに
ガラスのかけらに
血まみれのぼろ布の中に

誰かが梁を運んで来なければならない
壁を支えるために
誰かが窓にガラスをはめ
ドアを戸口に据えつけなければ

それは写真うつりのいいものではないし
何年もの歳月が必要だ
カメラはすべてもう
別の戦争に出払っている

橋を作り直し
駅を新たに建てなければ
袖はまくりあげられて
ずたずたになるだろう

誰かがほうきを持ったまま
いまだに昔のことを思い出す
誰かがもぎ取られなかった首を振り
うなずきながら聞いている
しかし、すぐそばではもう
退屈した人たちが
そわそわし始めるだろう

誰かがときにはさらに
木の根元から
錆びついた論拠を掘り出し
ごみの山に運んでいくだろう

それがどういうことだったのか
知っていた人たちは
少ししか知らない人たちに
場所を譲らなければならない そして
少しよりももっと少ししか知らない人たちに
最後にはほとんど何も知らない人たちに

原因と結果を
覆って茂る草むらに
誰かが寝そべって
穂を噛みながら
雲に見とれなければならない

ヴィスワヴァ・シンボルスカ

悲しみと憎しみの狭間で

私がこの詩を知ったのは2年前、池澤夏樹さんの著書からでした。池澤さんはこの詩を東日本大震災後の東北になぞらえていました。私もまたそのように思い、読んでいました。

その頃は戦争という言葉が私の世界には遠いものだったので、破壊ということは自然災害でしか起こらないという考えがありました。

しかし今の状況で改めて読み直すと、悲しいほどに全てが浸透してきます。今や私たちにとって戦争も戦火も、現実のものになってしまいました。

これは言葉そのまま、他意なく受け取って欲しいですが、、、憎むものがある人は一瞬は救われます。

自然は、私たち人間はどうしたって憎むことが出来ない。地面に立つ足の裏から離れられないもの、決して遮られないものだから、、、。震災後も海を生業として暮らしている方達にとっては、本当に辛い時間が今も流れているのだと思います。

また、憎む対象があるから楽になるかといえば、もちろん絶対ありません。

憎しみ

あいからわず、てきぱきしていて
元気で矍鑠(かくしゃく)たるもの
この世紀になっても憎しみは
高い障害物もなんのその
ジャンプ、アタック、朝飯前

ほかの感情とは違う
どんな感情よりも年上なのに、同時に若い
それは自分を生み出す原因を
自分で生む
眠るとしても、けっして永遠の眠りではない
不眠のせいで衰弱するどころか、いっそう強くなる

宗教やら何やらで
人はスタートの姿勢をとり
祖国とかなんとかで
人は「よーい、どん!」で駆け出していく
はじめは正義だってがんばっているのだが
やがて憎しみが勝手に突っ走るようになる
憎しみ 憎しみ
その顔は愛の恍惚に
歪んでいる

ぐずで弱弱しい
ほかの感情たちよ
兄弟愛はいつになったら
群衆をあてにできるのか
同情がかつて一等でゴールを
切ったことがあっただろうか
疑いがどれほどの人々を虜にできるだろうか
人を虜にできるのは我を通す憎しみだけ

有能でのみ込みが早く、仕事熱心
それがどんなにたくさん歌を作ったか、言うまでもない
歴史にいったい何ページつけ加えたことか
どれほど多くの広場や競技場に
人間の絨毯を敷きつめてきたことか

思い違いをしないように
それは美を作りだすことができる
真っ暗な夜、その炎の照り返しは素晴らしい
薔薇色の夜明け、その爆発が巻き上げる煙の渦はみごと
廃墟にはたしかに風情があるし
廃墟に頑強にそびえ立つ円柱にがさつな可笑しみがあることも
認めないわけにはいかない

憎しみはコントラストの名人
爆弾の轟きと静けさ
赤い血と白い雪を対照させる
そしてとりわけ、汚れきった犠牲の前に
そびえ立つこぎれいな死刑執行人というモチーフに
飽きることはけっしてない

いつでも新しい仕事を待ちかまえている
待つ必要があれば、待つ
目が見えないとも言う 目が見えない?
それは狙撃者の鋭い目を持ち
未来を大胆にのぞき込んでいる
自分一人で
ヴィスワヴァ・シンボルスカ

ヴィスワヴァ・シンボルスカ
ポーランドの女性詩人(1923~2012)
第一次世界大戦を過ごし、鉄道員として働くことでアウシュビッツを免れる。戦後の若者誰もがそうなったようにスターリン共産主義に足を踏み入れ、そして飛び出した。1996年ノーベル文学賞受賞。

震災と戦争に思うこと

池澤夏樹さんは書籍の中で「犠牲とは何かの目的のために神の祭壇で殺される動物のことである。無辜の人々の難死にそんな意味を与えられることが許されるか。正しき神はそんなものは受け付けないはずではないか」と書いています。自分が死ぬのだとしたら、その原因を教えてほしい。それが正義というものではないか、と。

今起きていること、、、ロシアとウクライナに自分でもびっくりするくらい影響されていて、どんよりしています。御岳山噴火の時もつらかった。私はこういうのに弱いのかもしれません。

東日本大震災はなんだろう、まだよくわかっていないです。愕然とした思いが未だ消えず、なんなんでしょうね。私たちが無の三日間を過ごしていた時、普通に暮らしていた人達が同じ国にいて、それをテレビで眺めていたんだ、という事を電気が通って知った時、ものすんごいショックだったんですよね。

なんでそんな感情が出てきたのか、そのショックをなぜ今も抱えているのか、全然わからないのですが。

戦争のことに意見や考えを述べると、まったくスルー(リアル付き合いFacebook)されるか、すごく激しい人(Twitterネトウヨさヨの人達)が一気に押し寄せるか、極端過ぎて驚いています。どこの国もそうなのかな。

ロシアは東日本大震災時に、大勢の専門家と救命士を派遣してくれています。ウクライナには世界各国から支援のつながりが生まれています。

私たちの理性が危機的状況だけではなく、平穏な時にこそ強く大きく働けるようになれたらいいのにな、と思います。

それでは、また。
たくさんの人が今夜を
安らかに眠れますように。

つちのと

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