マガジンのカバー画像

信州戦争資料センター 中の人の思うこと、やってきたこと

17
信州戦争資料センターは戦時体制下にあった日本の姿を、所蔵資料で公開し、見ていただいた方に後はおまかせするのが基本ですが、世の中の動きに黙っていられないときもあります。そんな、通常…
運営しているクリエイター

#戦時下

信州戦争資料センターの生い立ち

 「信州戦争資料センター」と名乗ってはいますが、残念ながら展示施設はありませんし、事務所があるわけでもなく、ただ「戦争を回避し続ける」という一点で集まった長野県の有志数人がいるだけです。ただ、名称だけは分かりやすく、将来、何かの奇跡で「施設」「団体」ができる時に使えたらいいなと、2015年の初めての展示会に合わせて付けました。気の合った有志で「今年は何をしようか」と相談しながら手弁当の活動を続けています。  あれは、代表がたまたま戦時下を知る方と雑談しつつ、戦争体験を聞ける

調べて発信するということ

 代表が初めてネットで発信を始めたのは、生活や趣味を通じて感じたりやったりしたことの日常のブログでした。もう20年ほど前になります。そういうブログは、自分の思うこと、感じたことをそのまま書くだけですから、調べものをして書くというものではありませんでした。むしろ直感で、素直に書くのが楽しかったです。  しかし、信州戦争資料センターのブログを2015年に始める時には、そういうわけにはいきませんでした。「モノ」を紹介するといっても、その背景や歴史の流れの中における位置づけなどをし

信州戦争資料センターの原点は、2度の空襲にさらされた父の体験

 わたしの父親は1929(昭和4)年、昭和恐慌の年の生まれです。まさに戦争の時代の中で成長していったのですが、生前、戦争体験は断片的にしか聞いておらず、亡くなるしばらく前になって、やっと自分も興味を持って尋ね、その時代の話を聞くことができました。せっかくの記憶が消えるのは惜しいので、できる限り思い出して書きます。写真は三重県宇治山田市(現・伊勢市)の戦災地図(部分)です。のちに話が出てきますので、しばらくお付き合いを。            ◇  もともと大阪にいた父は、母親

収蔵品の手探りの保全作業

 表題写真は、長野市内で使われた「空襲警報発令中」「警戒警報発令中」の立派な看板です。地元の骨とう品店で文字通り掘り出してもらったもので、善光寺近くの公民館に残っていたとか。映画「この世界の片隅に」の空襲シーンで、やはり「空襲警報発令中」の看板を片手にメガホンで呼び掛ける男性の姿が登場しますが、そこで使われているものとほぼ同じ大きさで、長さ90センチ近く、幅20センチ余り。規格品として全国に配置されたものかもしれません。            ◇  おそらく、作られてから80

根も葉もないことでも繰り返せばーが現代も息づいている情けなさ

 表題写真(全体はこの後に)は、大阪を本拠とした国粋大衆党が1932(昭和7)年2月10日の紀元節に合わせて発行した冊子「大阪朝日新聞は正に国賊だ!」です。(収蔵しているのは、3月1日発行の第7版)  国粋大衆党の名前は出さず「大阪朝日新聞不購読広告掲載禁止連盟」などど名乗っています。 参考までに、このころの朝日新聞は、満州事変の速報合戦を大手紙同士で展開するなど、特別に反戦をうたったりすることなく、戦争を素直に報道し後押ししていた状況です。また、政府や軍部の批判を書こう

私は戦争遺族ですが、靖国には行きませんー故郷の空の下でゆっくりしてほしい

 信州戦争資料センターの中の人は、叔父2人を戦争で亡くしています。いずれも父の兄で、それぞれ26歳、23歳という若さでの戦死です。  しかし、一人は大陸で、一人は南方で亡くなったという以外に何もわからなかったので、軍歴照明を手間をかけて集め、ようやく経過が分かりました。少しだけ、叔父たちの供養の意味を込めて、ここに記録させていただきます。            ◇  上の叔父は1918(大正7)年の生まれで、1944年4月20日、26歳で応召され、京都で編成した第53師団輜重

収集した資料の保存と記録ーこれがなかなか手間取るんだ(´;ω;`)

 信州戦争資料センターの中の人は、個人として自費で戦争資料を収集しています。そして、集めた資料はきちんと後世に伝えられるよう、記録し、劣化をできる限り防ぎ、展示会や資料映像提供などにすぐ応じられるように収蔵しなくてはなりません。2007年9月から集め始めてしばらくはまとめて箱に入れておく、数冊のファイルに順次しまうで良かったのですが、それから16年以上を経て、5000点近くもなると、分類一つとっても容易ではありません。また、定期的な展示会に耐え、ノートやⅩでの発信も盛んに行う

国民の政治参加は選挙だけじゃないんだぞって、声を大にして言いたい

 こちら、1929(昭和4)年6月1日発行の月刊誌「戦旗」です。労働者向けの月刊誌で、昭和恐慌で不景気のさなかの発売でした。丁寧にカバーがかけられ、保存状態良好です。  下に示ししたグラビアページには、メーデーの様子が載っています。1925(大正14)年に男子普通選挙の実現と抱き合わせで制定された治安維持法が、1928(昭和3)年には田中義一内閣の下、最高刑を死刑とする改悪がなされています。そして翌年の1929年3月5日には、治安維持法反対を貫いていた労農党代議士の山本宣治

核兵器の怖さを知らない国が核兵器を持つ恐ろしさー恐怖の均衡はたくさんだ

 広島と長崎に投下された原子爆弾の威力は、なかなか想像できないものです。ただ、投下直後の人々や街の姿は映像や写真に残っているので、これらを記憶遺産にとの政府の推薦方針は歓迎できます。  一方、ニューヨークで開かれている核兵器禁止条約の第2回締約国会議には、米英仏中露の核兵器保有5大国が条約に参加せず、日本政府も参加を見送っています。2023年11月29日の信濃毎日新聞によりますと、議長のメキシコのデラフェンテ前国連大使はガザへのイスラエル侵攻やウクライナへのロシア侵攻などを背

「外交は機能しているのか」との91年前の問い掛けが、今にも通じる情けなさ

 長野県の地方紙「信濃毎日新聞」で戦前、主筆を担った石川県出身の桐生悠々(1873‐1941)が1933(昭和8)年8月8日の信濃毎日に書いた評論「強迫観念に脅かされつつある日本」を紹介します。  この評論は、意外にもあまり注目されておらず、3日後の8月11日に書いた「関東防空大演習を嗤う」がはるかに知られていて、この評論をきっかけに県内の在郷軍人でつくる「信州郷軍同志会」が陸軍の後ろ盾もあって信濃毎日新聞に不買運動を用意して圧力をかけ、結局桐生が退社することになってしまい