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信州戦争資料センター 中の人の思うこと、やってきたこと

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信州戦争資料センターは戦時体制下にあった日本の姿を、所蔵資料で公開し、見ていただいた方に後はおまかせするのが基本ですが、世の中の動きに黙っていられないときもあります。そんな、通常…
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#空襲

信州戦争資料センターの原点は、2度の空襲にさらされた父の体験

 わたしの父親は1929(昭和4)年、昭和恐慌の年の生まれです。まさに戦争の時代の中で成長していったのですが、生前、戦争体験は断片的にしか聞いておらず、亡くなるしばらく前になって、やっと自分も興味を持って尋ね、その時代の話を聞くことができました。せっかくの記憶が消えるのは惜しいので、できる限り思い出して書きます。写真は三重県宇治山田市(現・伊勢市)の戦災地図(部分)です。のちに話が出てきますので、しばらくお付き合いを。            ◇  もともと大阪にいた父は、母親

収蔵品の手探りの保全作業

 表題写真は、長野市内で使われた「空襲警報発令中」「警戒警報発令中」の立派な看板です。地元の骨とう品店で文字通り掘り出してもらったもので、善光寺近くの公民館に残っていたとか。映画「この世界の片隅に」の空襲シーンで、やはり「空襲警報発令中」の看板を片手にメガホンで呼び掛ける男性の姿が登場しますが、そこで使われているものとほぼ同じ大きさで、長さ90センチ近く、幅20センチ余り。規格品として全国に配置されたものかもしれません。            ◇  おそらく、作られてから80

「外交は機能しているのか」との91年前の問い掛けが、今にも通じる情けなさ

 長野県の地方紙「信濃毎日新聞」で戦前、主筆を担った石川県出身の桐生悠々(1873‐1941)が1933(昭和8)年8月8日の信濃毎日に書いた評論「強迫観念に脅かされつつある日本」を紹介します。  この評論は、意外にもあまり注目されておらず、3日後の8月11日に書いた「関東防空大演習を嗤う」がはるかに知られていて、この評論をきっかけに県内の在郷軍人でつくる「信州郷軍同志会」が陸軍の後ろ盾もあって信濃毎日新聞に不買運動を用意して圧力をかけ、結局桐生が退社することになってしまい