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大相撲の方向性と行司番付再訪

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まえがき

本書は9章より構成されているが、最初は素朴な疑問から出発している。それは次のような問いかけである。

第1章 35代木村庄之助はどんなことを経験しているだろうか。
第2章 行司の自伝や雑誌記事は事実を正しく伝えているだろうか。
第3章 儀式や所作には一定の方向性があるのではないだろうか。
第4章 四本柱の色はどんな変遷を経て現在の四色になっているだろうか。
第5章 明治時代の行司番付記載を横列記載に変えたら、どうなるだろうか。
第6章 大正時代の行司番付記載を横列記載に変えたら、どうなるだろうか。
第7章 昇格年月の裏付けがない行司はどうすればよいだろうか。
第8章 行司の研究テーマを見つける手掛かりはないだろうか。
第9章 明治30年までの行司の房色は本当に判別できないだろうか。

内容的にはすべて行司と関係している。四本柱の色は一見、行司と関係ないが、間接的に関係がある。吉田司家と江戸の行司家が絡んでいるからである。第1章と第8章は行司関連のことを扱っているが、他の章と違い、特に目新しいことを主張していない。ありのままを語ったり、見方を変えたりしているだけである。
各章はマニアック的な内容でとっつきにくいかもしれない。小さなテーマを深く扱えば、その領域を研究している者には興味が湧くが、それほど関心のない者には細かすぎる印象を与えるかもしれない。わくわく感であろうと偏屈感であろうと、それは関心の持ち方しだいである。
本書の執筆に際しては、葛城市相撲館(小池弘悌さんと松田司さん)、相撲博物館(土屋喜敬さんと中村史彦さん)、「相撲趣味の会」の野中孝一さん、「大相撲談話会」の多田真行さん、元・木村庄之助(29代・33代・35代)、元・40代式守伊之助、現・38代木村庄之助、木村元基(幕内)、相撲研究家の杉浦弘さんにそれぞれ大変お世話になった。最近亡くなられた36代木村庄之助にも生前、大変お世話になっている。大相撲談話会の会員(現在は7名)からは例会の語り合いの中で有益な知識だけでなく、大きな刺激を受けた。第一回目の大相撲談話会は昨年(令和4年)解散し、今年(令和5年)5月に第二回目の大相撲談話会が新しく発足している。

【各章の概要】
各章の概要を簡単に記しておきたい。これを読めば、どんなことを扱っているか、大体の見当がつく。興味を引く章があれば、それを先に読むのがよいかもしれない。

第1章 35代木村庄之助は語る
35代木村庄之助とは国技館の行司控室で雑談をしたり、退職後は行司について教えてもらったり、大相撲談話会にゲストとしてお招きしたりし、ずいぶんお世話になってきたが、自宅にお招きしてお話を聞くという機会は一度もなかった。今回は、事前にお話の題材をお伝えし、お話を聞くことができた。主な題材としては、以前の溜り小使い、行司部屋の独立、土俵祭の行司参加者、軍配の握り方に対する考え、兄弟子の付け人、差し違えと責任の取り方などである。その題材を扱いながら、他の題材についてお話してかまわないこともお伝えしてあった。親方だけが一方的な語るのではなく、私も質問者として加わり、対談形式になるようにした。私はあくまでも質問者の立場であり、親方がそれに答えたり説明したりすることになっている。対談は録音してあるので、それを文字化したものをここでは提示してある。この章では何か新しいことを提案したり主張したりするのを目指しているのではない。目指しているのは、立行司が入門後、直に経験や体験したことなどを聞き、知ることである。昭和37年(1962)から平成23年(2011)まで親方は行司を務めているので、さまざまなことを経験している。そのあいだ、相撲界はもちろん、行司界もいろいろ変化している。親方の何気ないお話の中で、それを感じ取ることができるはずだ。

第2章 自伝や雑誌記事の記述
立行司の中には自伝や雑誌の対談記事で「事実と一致しない」あるいは「腑に落ちない」ことを語っていることがある。実際は、事実を語っているのかもしれないが、首をかしげたくなることがある。たとえば、20代木村庄之助(松翁)は自分の行司歴で明治42年に紅白房を許されたと書いているが、これは本当だろうか。この行司は錦太夫時代、明治35年1月に紅白房(本足袋)に昇格している。なぜ明治42年にも紅白房を許されたと書いているのだろうか。その年には「朱房」へ昇進したはずである。なぜ朱房ではなく、紅白房と書いたのだろうか。そうする特別な理由があったのだろうか。また、22代木村庄之助は雑誌記事の中で軍配の握り方に二つの流派はないと語りながら、自伝では二つの流派を認めている。幕下以下行司でも自伝で、二つの階級で房色が異なると述べている。上位が青、下位が黒である。しかし、雑誌記事ではそのような区別はないと暗に認めている。いずれが正しいのだろうか。この二人以外に、本章では19代式守伊之助、21代木村庄之助、24代木村庄之助、6代木村瀬平等が自ら語ったことを取り上げている。どのようなことを語っているかについては、本章で詳しく扱っている。

第3章 大相撲の方向性
大相撲の儀式や行司の動きなどを見ていると、一定の方向に動いていることがある。たとえば、横綱・幕内・十両土俵入りで、先導する行司は土俵を左回りに周回する。また、土俵で蹲踞している行司は房振りをするが、その方向は右→左である。土俵祭の最後で、呼出しの太鼓が土俵を三周するが、その動く方向は左回りである。土俵祭では、清祓い、塩撒き、軍配振りなど、神道に基づく「しきたり」が見られるが、多くの場合、その動く方向は左→右→中央となっている。しかし、清祓いの儀では、左→右→左の順で榊の枝でお祓いをする。土俵の四本柱の上部に水引幕(天幕)が張ってあるが、それを巻くのにも一定の方向がある。その順序は黒柱→青柱→赤柱→白柱→黒柱である。この張り方はかなり以前から変わらない。このように、力士や行司は何かをするとき、一定の方向性を示している。なぜそういう方向を示すのかに関しては、理由がはっきりしているものもあるし、そうでないものもある。いずれにしても、まず、一定の方向性を示すものにはどんなものがあるかを知ることである。その次に、なぜそういう動きをするのかを追究すればよい。本章では、その事例をいくつか提示してある。

第4章 四本柱の色とその変遷
現在、土俵に四本柱はない。昭和27年9月にその四本柱を撤廃し、その代わりとして天井から四房を垂らしている(この四房の色は青、赤、白、黒である。本章では、この四房の代わりに以前の「四本柱」を使うことにする)。四色は陰陽五行説に基づく。『相撲家伝鈔』(正徳4年)、『古今相撲大全』(宝暦13年)、『相撲伝秘書』(安永5年)、『相撲穏雲解』(寛政5年)などの古書によると、四本柱は四色で巻くとなっており、それは一種の故実となっている。ところが、寛政3年6月の上覧相撲では、柱は紅(朱)と紫の二色であったし、勧進相撲の柱は朱が基本で、ときおり紅白であった。勧進相撲で現在のように、四色になったのは安政5年1月である。江戸相撲が吉田司家の傘下に入ったのは寛延2年だが、それから安政5年1月までずっと朱が基本だったことになる。寛政3年6月以降にも上覧相撲は幾度か開催されているが、文政6年4月以降、柱は四色だった。なぜ勧進相撲ではこの四色を使用しなかったのだろうか。吉田司家は勧進相撲の柱の色について確固とした故実を有していなかったのだろうか。上覧相撲の柱は四色、勧進相撲は朱とそれぞれ決まっていたのなら、なぜ安政5年1月の勧進相撲では突然、四色を用いたのだろうか。また、寛政3年6月の上覧相撲では朱と紫の二色だったのに、文政以降ではなぜ四色を使用しただろうか。このように、柱の色は幾度か変わり、一定ではなかった。どのような変遷を経て現在の四色に落ち着いたのだろうか。その変遷を見ていくことにする。

第5章 明治30年以降の行司番付再訪(資料編)
明治時代の番付表は傘型記載だった。それを現代風に横列記載に書き換え、それぞれの階級に房色を付記してある。傘型の番付表では、階級間の境界が必ずしも明確でないことがあるので、当時の新聞を大いに活用し、その階級を判断してある。それでも、幕下と十両の境が明白でない場合、星取表を参考にした。星取表では、十両以上が記載されているので、左端に記載されている行司が参考になることがある。ここでは、気になる問題点を二つ示しておく。一つは、木村朝之助がいつ、朱房に昇格したかである。隣接する行司の昇格年月を参考にし、明治38年5月、39年1月、39年5月のうち、いずれかだと推定しているが、確固とした裏付け証拠がまだ見つかっていない。もう一つは、木村庄三郎(のちの10代式守伊之助、17代木村庄之助)の紫房である。明治38年5月に第三席の立行司として紫白房を授与されているが、それは式守伊之助と同じ(真)紫白房だったのだろうか、それとも半々紫白房だったのだろうか。第三席の立行司であれば、普通、半々紫白房である。少なくとも明治末期以降昭和34年11月場所まで、半々紫白房だった。しかし、本書では、明治末期までは第二席の伊之助が(真)紫白だったように、第三席の准立行司も(真)紫白だったとしている。これは妥当な判断なのだろうか。もし木村庄三郎が半々紫白だったなら、房色をそのように変えなくてはならない。本書では、木村瀬平は明治32年に紫白房になり、34年に16代木村庄之助と同じ准紫房(紫糸が1,2本混じった房)を授与されたとしているが、その判断は正しいのだろうか。なぜなら木村瀬平は番付上、第二席の立行司だったからである。第二席の立行司なら、式守伊之助と同じように、(真)紫白房が普通である。木村瀬平は特例として庄之助と同じ准紫房を許されていたのだろうか。

第6章 大正期の行司番付再訪(資料編)
大正時代の大きな関心事は、第三席の准立行司がいつ紫白房(厳密には半々紫白房)を授与されたかである。たとえば、准立行司の木村誠道はいつ紫白房を許されただろうか。明治45年夏場所だろうか、それとも大正2年春場所だろうか。それから、木村朝之助は第三席の立行司として大正3年5月に半々紫白房を許されたのだろうか、それとも大正4年1月場所だろうか。確かな裏付けはないだろうか。木村誠道はいつ式守伊之助(12代)を襲名しただろうか。大正3年5月だろうか、それとも大正4年1月だろうか。大正3年から4年にかけては式守伊之助を襲名すると、大きな禍が起こるという迷信があり、誠道は一時伊之助を襲名しなかった。襲名しなくても、第二席であることは確かだったので、そのあいだ、房色にも何らかの影響があったかもしれない。もちろん、紫房(具体的には総紫房、紫白房、半々紫白房)の授与年月だけが問題ではない。他にも、たとえば17代木村庄之助が大正10年5月、差し違いの責任を取って急に辞職している。さらに、12代式守伊之助も大正10年末に老齢を理由に辞職している。二人の立行司の辞職は、他の行司の人事や房色に大きな影響を及ぼしている。たとえば、第三席の立行司式守与太夫は大正10年5月、臨時に紫白房(厳密には半々紫白房)を許されたが、その房をそのまま翌場所(11年1月場所)までも許されている。もしかすると、夏場所から翌年の春場所のあいだに(真)紫白房を許されているかもしれない。第二席の式守伊之助を襲名することは、すでに決定していたからである。第三席だった木村朝之助は式守伊之助を飛び越えて木村庄之助(18代)に昇格している。

第7章 未解決の昇格年月
明治、大正、昭和の傘型(山型)番付表を横列記載の番付表に変えたとき、同時に各行司の房色も付記してある。昭和時代は拙著『大相撲行司の格付けと役相撲の並び方』(2023)の第6章「傘型表記と横列表記(資料編)」で扱っている。明治と大正時代は本書の第5章と第6章で扱っている。番付や房色を決めるには当時の新聞や文献を活用したが、中には直接的な資料がなかなか見つからず、隣接する行司を参考にして決定せざるを得ない行司もいた。本章では、そのような行司に焦点を当て、再び取り上げることにした。たとえば、明治時代では、特に木村朝之助がいつ朱房へ昇格したかが不明である。その昇格年月をかなり絞り込んだが、やはり依然として裏付けとなる証拠は見つかっていない。また、明治34年4月の新聞記事には数名の行司が昇格しているが、それはすでに昇格していた行司を再確認している場合もある。大正時代には、木村鶴之助と木村作太郎がいつ紅白房へ昇格したかに関し、状況証拠から昇格年月を推定している。4代式守錦太夫(のちの7代式守与太夫、16代式守伊之助)に関しては、大正15年5月、草履を履く三役格へ昇進したとしている。この指摘は正しいだろうか。というのは、草履を許されたという裏付けがないからである。大正15年5月場所で裁いている写真が相撲雑誌(昭和2年1月)の口絵に掲載されているが、草履を必ずしも明確に判別できない。昭和時代は、式守喜三郎がいつ紅白房へ昇格したのかがはっきりしていなかったが、当時の星取表でそれを確認すことができた。木村善之輔より一足先に昇格していたことがわかった。

第8章 行司の研究
行司に関心を持ち、研究を始めても、長続きするような題材がないという気持ちを抱くかもしれない。相撲では、行司は脇役であり、目立つのは独特の衣装や取組を裁くときの所作くらいである。しかし、相撲は昔から続いている伝統文化であり、相撲もさまざまな変遷を経て現在に至っている。同様に、行司の在り方もさまざまな変化をし、現在に至っている。行司を長く研究するには、何に注意すればよいかを、ここでは箇条書き的に提示してある。それをヒントに、研究してみたいテーマを見つけ、これまでの歴史を振り返えればよい。注目する主な点は、帯刀、装束、履物、軍配、土俵上の所作、房の色、口上や掛け声、制度、土俵祭などである。歴史的にどのような変遷を経て現在に至っているかを知りたければ、関連ある文献を読むことである。歴史を調べたり故実の由来などを追究したりすると、神道や陰陽五行説や仏教など、宗教的分野にも自然に目が向く。そうなると、追究してみたい領域がさらに広くなる。一つのテーマの追求が次のテーマへとつながる。大相撲は過去や現在の日本文化をかなり反映しており、行司という一つの領域にいたつもりが、日本文化とは何かという大きなテーマへと関心が向くかもしれない。

第9章 明治30年までの行司番付と房色(資料編)
明治30年以降の行司の番付や房色はこれまでもいくらか研究されている。ところが、明治元年から30年までの房色となると、庄之助や伊之助は別として、それ以外の行司は研究の対象になっていない。その理由は、おそらく房色に関する資料が乏しいからである。錦絵はいくらかあるが、それに描かれている行司は庄之助と伊之助がほとんどである。両人以外の下位行司が描かれることはめったにない。
私は明治前半の各行司の階級や房色の研究をするのをためらっていた。が、最近、あえて挑戦してみる気になった。基本となる番付表は毎場所発行されていて、中央に行司欄がある。錦絵もいくらかある。星取表も場所後に発行されている。のちに三役あたりまで出世した行司なら、その経歴などを記した資料がいくらかある。これらの資料を駆使すれば、何か有用な論考がまとめられるのではないか。そういう淡い考えを抱き、実際、研究を始めてみた。本章をまとめるには大変苦労したが、内容のよしあしは別にして、何とかまとめることができた。不十分な内容であることは素直に認める。
この第9章はこれまで誰も手掛けなかった領域にあえて挑戦している。各行司の房色がいつ許されたかについては、ある程度その年月を指摘できたが、それが事実に即しているかとなると、必ずしもそうとは言えない。裏付けとなる資料が得られないことがある。まだ解明すべき点がいくらかあるが、それは今後の研究に俟たなければならない。本章は今後の研究の叩き台である。そう理解してくれることを期待している。
研究しているうちに、たとえば、木村瀬平と木村誠道の房色に疑問が生じた。瀬平は慶応元年11月に紅白房になったと文献資料などでは書かれているが、明治元年11月の番付表では3段目に記載されている。また、木村誠道は明治6年中、高砂改正組に同行したとき、幕下十枚目(青白房)だったと新聞なでは記述されているが、6年11月と7年2月の番付表では3段目に記載されている。両行司の紅白房や青白房は本当に正しいのだろうか。私が番付表を読み違えているのだろうか。そのことについては、本文中で答えることにしよう。(本書「まえがき」より)

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