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桶狭間の戦い(後篇)-今川義元の首塚・胴塚、および部将たちの戦死塚

1月15日に放送されたNHK大河ドラマ『どうする家康』第2回では、桶狭間の戦いに勝利した織田信長が、松平元康(徳川家康)の在陣する大高城に押し寄せるシーンが描かれました。しかし一次史料に依る限り、信長は義元を討った後、早々に居城の清洲城に引き上げています。そこで信長は、義元ら討ち取った今川方部将の首実検を行ない、戦死者の供養を行ないました。

■須ヶ口の「今川塚」

桶狭間の戦いで今川軍を大敗せしめた織田信長は、その馬先に今川義元の首級を掲げ、来た道を急いで引き返し、その日のうちに居城・清洲城に凱旋した。『信長公記』によると、信長はその翌日、討ち取った今川軍将兵の首3000余の首実検を行なったという。

さらに信長は、敗死した今川軍将兵のために、清洲の南の関門に当たる須ヶ口(愛知県清須市須ヶ口)の美濃街道沿いに「義元塚」を築き、僧に命じて丁重な供養を施している。その様子を、『信長公記』は次のように書きとどめている。

「清洲より廿町南、須賀口、熱田へ参り候海道に、義元塚とて築かせられ、弔の為にとて、千部経をよませ、大卒都婆を立て置き候ひし。」

移葬前の「今川塚」があった場所付近(愛知県清須市)

「義元塚」と称していたほどだから、これも首塚だったのかもしれない。だが、やがて墳丘も消滅し、それらしき伝承を聞くことはできなくなった(そのため拙著『日本の戦死塚』でも事例リストに入れていない)。

ただし、その古跡は徳川時代後期には「駿河塚」と呼ばれるようになり、現在では「今川塚」と称している。また、その場所には桶狭間の戦いから101年後の寛文元年(1661)に、正覚寺(清須市須ヶ口)の6代目住職・三誉上人と地元の念仏講同行14名によって供養費が建立された。これが「今川塚供養費」と呼ばれる石碑で、長らく民家の敷地内にある塚址に端座していたが、平成19年(2007)11月24日に正覚寺の境内へと移設された。

移設された「今川塚」の供養塔(愛知県清須市)

貴賤を問わず、自らに逆らう者は平然と殺戮し、死者など顧みないイメージのある信長だが、このころは、勝者ゆえの慣習にならい「怨親平等」よろしく敵将兵の霊的処遇も入念に行なっていた。前稿でみた桶狭間古戦場の「七ツ塚」や「戦人塚」も、いずれも信長が築造したものとする異説が語られているが、あるいはそれも事実であった可能性があると私見を述べたのは、上記したような振る舞いが、当時の信長にはあったからである。

■今川義元の首の処遇

信長にとって、やはり桶狭間の戦いは、その生涯でもそう訪れない大事件だったのであろう。彼の事跡を克明に描いた『信長公記』には、今川義元の首のゆくえも詳述されている。管見の限り、『信長公記』で敵将の首の処遇について記すのは、この義元と、後年信長に攻められ自害した武田勝頼のケースぐらいである[室井 2022]。

その『信長公記』には、「義元のさゝれたる鞭、ゆがけ持ちたる同朋には、のし付の太刀わきざし下され、其の上、十人の僧衆を御仕立候て、義元の頸同朋に相添へ、駿河へ送り遣はされ候なり」とある。つまり信長は、実検に付した今川義元の首を、戦場で生け捕りにされたとみられる義元の同朋(戦陣に従い、主君の身の回りの世話をする僧侶)に下げ渡し、さらに十数人の僧を同行させ、義元の故郷・駿河へと送り返したという。敵将に対する心憎いまでの厚遇である。

だが、『信長公記』に次いで信憑性が高いとみられる『三河物語』には、別の経緯が記されている。同書は徳川家康の一代記で、著者は徳川家臣の大久保彦左衛門忠教。のちに講談や時代小説などで知名度を高めた人物である。彼は桶狭間の戦いの起きた年に生まれているため、戦いの記憶はなかったが、年の離れた長兄・大久保忠世が松平元康に従って大高城兵糧入れや丸根砦の攻撃に参加したとみられるため、その様相を当事者から直接聞き得る立場にいた。

『三河物語』によると、義元が討ち取られた後も鳴海城に籠城していた今川家臣・岡部元綱が、織田方に降伏・開城する交換条件として義元の首の返還を要求した。その結果、首は岡部に渡り、彼の手で故国帰還が実現したとする旨の記述がある。

この岡部の行動について、著者の大久保忠教は「武辺ト云、侍之義理ト云、普代之主の奉公ト云、異国ハ知ラズ、本朝にハ有難シ。尾張之国より東にヲイテ、岡部之五郎兵衛ヲ知ラザル者ハ無」と記し、手放しで賞賛している。もっとも、ここで忠教が岡部を絶賛するのには別の意図があると思われるのだが、それは機会があれば本記事において言及したい。

はたして、義元の首を駿河へ戻したのは彼の同朋衆だったのか、あるいは岡部元綱だったのか。今となってはわからないが、後述するように、義元の首のゆくえをめぐる異説には、同朋ではなく岡部が登場する。

通説では、駿河今川館に戻った義元の首は、6月5日に臨済寺で行なわれた葬儀の後、重臣・関口氏純(徳川家康の正室・築山殿の父)の所領に埋葬されたとされる。氏純は、そこに義元の法名「天沢寺殿四品前礼部侍郎兼駿州勅史秀峰哲公大居士」に因んだ天沢寺を建立し、寺域内に義元の首級を収めた墓が築かれたが、同寺は明治に入り廃寺となったため、臨済寺へと移葬された。これが臨済寺にある「今川廟」である。

かつて天沢寺があった場所に隣接する富春院(静岡市葵区大岩本町)の墓地には、移葬前に義元の墓があったとされる場所に慰霊塔が建てられている。また臨済寺の今川廟には、義元の首を岡部元綱が持ち帰ったさい、それを収めた陶器(古瀬戸)の首桶が残されているとされ、遠藤秀男氏の著書『日本の首塚』[遠藤 1973]には、その写真が掲載されている。

天沢寺跡にある今川義元の「墳墓之旧跡」(静岡市葵区)

以上のように、義元の首のゆくえについては、同時代の史料や、それを傍証する古跡がいくつか存在することから、それが故地に戻され丁重に埋葬されたとする通説は、それなりのリアリティを湛えている。

■今川義元の「首塚」

だが、他の有名な戦死者と同様、義元の遺体の処遇についても異説が語られてきた。それが愛知県西尾市駒場町の東向寺ある首塚である。これは鳴海城の開城と引き換えに義元の首を受け取った岡部元綱が、駿河への帰途にあるこの寺へ立ち寄り、それを埋葬したものだと伝えられている。

今川義元の「首塚」(愛知県西尾市)

寺伝によると、この寺の住職・徳順上人が義元の伯父とされ、また義元も、同寺に対し田地の寄進や禁制を発出するなど、元来、両者の間には縁があったのだという。この伝承の真偽はわからないが、寺のすぐ近くには「今川氏発祥の地」(愛知県西尾市今川土井堀)もあるため、このあたり一帯が、もともと今川家との所縁が深かったのは事実のようだ。

戦死塚の築造の経緯を語る伝承には、いくつかのパターンがあり、亡骸が縁者によって個人の出身地もしくは生育地に戻され、霊的処遇がほどこされたとするモティーフの語りを、私は「故郷帰還型」と呼んでいるが[室井 2007]、この首塚が所在する場所が、義元からみて祖先墳墓の地であることを考えると、件の伝承もまた、広義の「故郷帰還型」と言えるかもしれない。

■今川義元の二つの「胴塚」

他方、首から切り離された義元の胴体は、やはり家臣によって駿河へ向けて運ばれたが、途中で腐敗が進んだため、やむなく付近の寺に埋葬されたという。それが愛知県豊川市牛久保町岸組の大聖寺にある「胴塚」である。

義元が討たれた旧暦5月19日は、新暦だと6月12日に当たり、梅雨のまっただ中である。亡骸が「故郷帰還」を果たす前に腐敗したため、手の施しようがなくなったというのは、ありえる話だろう。義元の胴体が大聖寺に埋葬されたとする伝承について、歴史学者の小和田哲男氏は、「発掘調査してみないことには何ともいえないが、その可能性はあるのではないか」と述べている[小和田 1989]。

また前述の遠藤秀男氏は、同寺が今川氏と同じ足利一門に連なる一色氏の菩提寺であったことから、これは供養塔であるとし、「胴塚」は世俗の呼称だと断じている[遠藤 1973]。

今川義元の「胴塚」(愛知県豊川市)

私は伝承の真偽には立ち入らない立場だが、この小和田氏の見解には同意する。なぜなら、義元の戦死から3年を経た永禄6年(1563)、今川義元の嫡男・氏真が、父の三回忌をこの大聖寺で執り行ない、かつ義元の位牌所として寺領を安堵しているからである。

当時、この寺が所在する牛久保一帯は、いわゆる「境い目」の領主・牧野氏(徳川時代の越後長岡藩主の先祖筋)の所領であって、とくに今川氏と直接ゆかりがあるわけではなく、加えて、義元が守護を務めた駿河・遠江の域内でもなかった。にもかかわらず、氏真が同寺を厚遇しているのは、そこが父・義元の埋葬地だと認識されていたからではなかろうか。

愛知県内にはもう一つ、義元の胴塚とされる古跡がある。知多半島の西の付け根、伊勢湾にほど近い場所にある「今川塚」(東海市高横須賀町北屋敷)である。こちらも義元の家臣が亡骸を運び、埋葬したと伝えている。徳川時代、その場所はすぐ目の前まで海が迫っており、塚は海上安全の神格として、海に生きる人々から崇められたという。

今川塚(愛知県東海市)

立地からして、水死体などの漂着物を神として祀るエビス信仰との関連が考えられるが、この土地にとって縁もゆかりもない今川義元の亡骸は、さながら外部からにわかに来着したエビスと同じであると言わばいえる。その被葬者が義元本人なのかは、まったくわからないが、非業の最期を遂げた義元という記号が、ここでは海の守護神へと転化しているのは、多くの戦死塚伝承でみられる「転換型怨霊観」[桜井 1977]に通底するものがあり、実に興味深い。

■今川家重臣・松井宗信の首塚

桶狭間の戦いでは今川義元のみならず、多くの有力家臣や従属する国衆の当主が戦死した。だが、彼らの戦死塚であると明確に伝えている事例は、管見の限り、静岡県磐田市上野部の天竜院の境内墓地にある松井宗信の「首塚」のみである。

松井宗信の「首塚」(静岡県磐田市)

当時の宗信は、西遠江の要衝・二俣城(静岡県浜松市天竜区二俣町)の城主を任された今川家の重臣である。大久保忠教の『三河物語』では「松井ヲ初トシテ拾人余、枕ヲ并討死ヲシケリ」と、桶狭間で戦死した今川家臣のうち唯一名前を挙げられており、少なくとも忠教の中では、宗信は戦死した今川の部将の中で最重要人物とみられていたに違いない。

寺伝によると、桶狭間で戦死した宗信の首級は、息子の松井助近が袖に包んで戦場から持ち出され、5日後に二俣城へ到着したとされる。その後、宗信の兄・松井信薫(前の二俣城主)が菩提寺として創建した天竜院に埋葬されたという。したがって宗信の首は、故人所縁の地へ戻されたのである。

この伝承は、前述した「故郷帰還型」の典型例といえる。

■松平元康の岡崎撤退と「大衆塚」

桶狭間での今川軍大敗の報に接した松平元康は、ただちに父祖墳墓の地・岡崎を目指して撤退した。だが、父・松平広忠が居城としていた岡崎城(愛知県岡崎市康生町)は今川方の部将が守備していたため入城が叶わず、とりあえず城の北方約3キロメートルの位置にある松平家の菩提寺・大樹寺(岡崎市鴨田町広元)に入ることにした。

寺伝では、大樹寺に逃げ込んだ元康は、父祖の墓前で自害しようとしたが、住職の登誉上人に諭され、自害を思いとどまったとされる。失意の元康が、いわゆる「厭離穢土欣求浄土」の実現に向けて奮起するという有名なエピソードであり、先日放送されたNHK大河ドラマ『どうする家康』でも、それらしき場面が描かれていた。

元康は、やがて岡崎城に駐屯する今川の部隊が撤退したとの報を受け、ようやく岡崎城に移ろうとしたが、その時、元康が滞在する大樹寺には敵の追手が迫っていた。これが織田軍なのか、あるいは桶狭間での織田軍の勝利を受けて「事大主義」的に呼応した在地勢力だったのか(※『どうする家康』では、元康の松平本家筋と対立関係にある大草松平氏として描かれていた)、そもそも大樹寺での迎撃が伝承の域を出ない話なのかは不明だが、元康が岡崎城へ入るには、これらの敵を退けねばならなかったという。

大衆塚(愛知県岡崎市)

地元の伝承によると、元康が大樹寺から岡崎城へと向かうさい、元康を守って戦い、命を落とした寺僧がいたとされ、彼らの亡骸を、のちに元康が埋葬したと伝えられるのが、大樹寺の南東約600メートルの位置する西光寺(岡崎市鴨田町向山)の境内にある「大衆塚」で、塚上には阿弥陀如来の石像が端座している。ちなみに、ここで言う「大衆」とは僧侶のことである。

かくして元康は、無事に岡崎城へと入城を果たしたものの、まもなく敵対する在地勢力との戦いに翻弄されることになる。中でも最大の危機は、元康の家臣からも加担者が続出した「三河一向一揆」との戦いであろう。この「大衆塚」には、のちに一向一揆との戦いのさなかに戦死した僧の亡骸も合葬されたと伝えられている。

(おわり)

【参考文献】
桑田忠親校注『新訂・信長公記』(1997 新人物往来社)
『三河物語・葉隠(日本思想大系26)』(1974 岩波書店)
遠藤秀男 1973『日本の首塚』 雄山閣出版
小和田哲男 1989『桶狭間の戦い-信長会心の奇襲作戦』 学習研究社
桜井徳太郎 1977『霊魂観の系譜-歴史民俗学の視点』 筑摩書房
室井康成 2007「首塚伝承考-戦死者埋葬譚のモティーフ分類」『古城』52  
 静岡古城研究会
室井康成 2022『日本の戦死塚-増補版 首塚・胴塚・千人塚』 角川ソフィ
 ア文庫

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