明日卒業式で、明後日入試なのに、することが何もないので、帰った。


やっとわかった。
いや、やっぱりそうだったんだと確信した。
承認欲求過多の痛い人として遠ざけられてるのはわかってるのだけど、きっとそもそも最初から、「ワタシ」である必要がなかった、求められていたわけではなかったんだなってこと。
なんか上手い例えが見つからない(髀肉の嘆とも違う)けど、
いきなり「ここなんとかできません?」とか「これってどうやるのですかね?」。
うーんどうしたらいいんだろ。てか、それワタシがやること? やり方も知らないし、道具もないし、頼る人もいないし。仕方ないから、調べたり、ない知恵を絞ったり、しゃにむにがむしゃらにやったり、「こうしたらどうすか」アドバイスしたり。うまくいったかどうかもわからないままでいたら、周囲で遠巻きに眺めていた人たちがいつのまにか寄ってきて、「お疲れ様」「すごいね」「感謝してます」口々に言ってくれるけど、またすーっと離れていく。
あるいは、なんとかしないといけないのに、誰もやらない。仕方ないから、越権行為かもしれないけどと思いながらも、あれこれやる。周囲で遠巻きに(以下略)。その繰り返し。一緒にやってくれる人もたまにいるけど、話すことは最小限の「ホウレンソウ」やら中身のない上っ面なあいさつだけ、助けて助けられてもするけど、それもまた、終わる?とすーっといなくなる。何事もなかったかのように。
そう、何事もなくなってしまう。関わりも、つながりも、気持ちのやり取りも。そんなものは鬱陶しいかもしれない、終わってしまったことと、もう関わりたくないからほっといて欲しいのかもしれない。
それでいて、ミスや期限切れには丁寧に熱心にご指摘くださる。この書類はこれこれこういうことでダイジなものですから本日中にお願いします。ご丁寧にご説明くださる。わかってるんだけどね。だらしないひと、困ったひと、めんどくさいひと認定には慣れているけど、何も考えていない・感じていないひと扱いにはダメージが大きい。でも、この人とも、こんなきっかけでもないと話す場面がないから、ラッキーと思うようになってしまう。
要するにこれは「ワタシ」というひとに対してでなく、Aさんでも、Bさんでも、Cさんでも誰でもいい、「都合のいい人」扱いだし、どうでもいいひと扱いということなんだと気づいた。
そりゃ仕事、業務としてやれる人がやるのは当然、その通りおっしゃる通りなんだけど、少しはウエットで、エモーショナルなところもあってもいいだろうし、ここでないところではどんなキツい状況でも、そういう意気に感ずる部分があった。
だけどここにはそれがない。
今日ワタシに与えられたことは、放送マイクの音量チェックと、1階のトイレ清掃。全力で便器を磨き上げ、シンクをピカピカに光らせた。もうすることは何もない。何かしても誰にも必要とされていない余計なことだし。誰とも話さないまま、年休簿を書き、11時前に帰った。
それでも、何事もなく、滞りなく全てが進んでいく。
気がつけばワタシの居場所はどこにもなくなっている。
なんだ、それでいいんじゃん。いなくたって。
やっぱり、また、ひとりぽっちになってしまったよ。
また、都合よく利用されて同じように見捨てられるか、
ひとりでジタバタするか。
しゃあない、またやりますよ。
でもそれがここなのかは、まだ考えている。

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