「いじめ」であまり語られないだろうこと。

 先行研究とか公式の定義とかすっ飛ばしていうと、いじめの構造では、少数の被害者がいたとして、加害者、支持者、傍観者含めて、被害者より圧倒的に多数派を形成するのが常である。「無関係者」はどうか。いじめを認知してようがいまいが、被害者にとってのたすけや救いにならない時点で組織や集団での多数者側だ。

 いじめ事件が起こる。被害者について多くの人が同情を寄せ、責任が追及され、識者のコメントが報道される。ネット上のタイムラインには、加害者を罰せよとか、隔離しろとか、追放しろとか、たくさん流れてくる。気持ちはわかるし同意するけど、いじめの解決が難しいとすれば(犯罪、事故あるのは別として)この「多数決」があるから、だと思う。

 だから多数の意向に少数は従うという多数決原理を否定しない限り、この構造は変わらない。少数者の多様性を包摂できる集団意識を形成するように「学級作り」すりゃいじめの予防になるといえば多くの教員は賛成してくれると思うけど、それは「空気読め」「みんなに迷惑かけるな」の否定。そんなことできる?

 相手を変えるために取られる手段は柔軟さまざまだ。説得し、有形無形のプレッシャーをかけ、時には精神的ダメージを与え、屈服させ、翻意させ、言動を変えさせようとする。思い通りになれば嬉しい、達成感を得る。私も含めてそんな行為をやったことない人はいないはず。そうでない人はたぶん少数派で、いじめられる側にいたのかもしれない。

 そう、あなたもわたしも「多数派」なのだ。いじめる圧倒的多数派なのだ。そんな自覚なしに「いじめ加害者をパージしろ」とツイートするのも、「あいつムカつくよねー」とささやくのも、「あおり運転野郎に死を」と叫ぶのも、「あそこの店でコロナ出たんですってよ」と心配するのも、いじめ加害の振る舞いとなんら変わらない。いじめは、多数派の正しい「正義」の名の下に行われるものだ。

 この社会に溢れる同調圧力と排除の論理への自戒がもっと必要なのだと思うし、特に学校がその生産装置となっていることへのまなざしなしにいじめを語っても詮なきことなのだと思う。

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