都庁_魚眼

オリンピックと間接的な暴力

2019年も終わりが見えてきて、とくに深いかかわりのない私にとっても2020東京五輪がにわかに現実感のあるものとなってきました。とくに深いかかわりがないとはいっても、スポーツはやるのも観るのも割と好きな方なので、まったく気にならないわけでもありません。

NPO法人もやいの提言


先日、そんな東京五輪について、勤務先のNPO法人もやいでブログ記事とプレスリリースが出されました。タイトルは「署名の呼びかけ:『2020年東京オリンピック・パラリンピックの開催にともなう野宿者や安定した住まいをもたない生活困窮者への対応について』の提言」(自分でつけたくせにアレですが、長い)。

詳細についてはもやいのブログを見ていただきたいのですが、要は東京五輪開催するんだったら野宿してたりネカフェなどで寝泊まりしている人に悪影響を与えたりするなよ、ということです。すでに五輪関係で都内のいくつかの場所で実際に野宿者を意図的に追い出すということが行われています。それ自体おかしいとも思いますが、ここで焦点を当てたいのは悪意を持って追い出すつもりがなくても居場所を失ってしまう人が出る可能性がある、ということです(※1)。

五輪はとても大きなイベントであり、世界中から選手だけでなくさまざまな人が大量に訪れることになります。そうすると、安い宿とかネカフェとかが満杯になったり、値段が高くなったりすることで、そうした場所以外に寝場所がない人は事実上寝場所を失ってしまいかねません。また、「テロ対策」とかを理由に野宿者の荷物を撤去しようとしたり、公共空間(公園や駅など)にいることが難しくなってしまう人が出るだろう、というわけです(※2)。

間接的な暴力


別にネカフェや安い宿を使う人は安定した住まいがない人を路上にたたき出してやろうとか思って使うわけではないでしょうし、テロ対策をまったくしないわけにもいかないでしょう。しかし、誰かが(私やあなたが)東京五輪を楽しむために当たり前にやることや必要だと思っていることが、意図とは関係なしに、また直接ではない仕方で、より社会的に不利な立場に置かれた人に負担を強いたり不利益を与えたりすることになる可能性があるということは忘れてはいけないと思います。つまり、「東京五輪を楽しむこと」が誰かに対する間接的な暴力につながってしまうことを看過すべきではないと思います(※3)。

五輪を楽しむこと自体が悪いわけではないし、五輪を開催することが(ぶっちゃけ今回に関しては招致のプロセスなど、大いに問題があると思いますが)それ自体として悪いとは限りません。しかし、ごく当たり前のことですが、この社会というのはなんらかの仕方でいろんな人びとが影響を与え合って回っているわけです(※4)。自分がやっていることが思わぬところで意図しないことを引き起こしているかもしれない、という想像力はこの社会で生活する上で大切なものだと思います(これは自戒を込めて書いています)。


終わりに


「因果関係」という観点で上記のことを理解すると、「そんなこと言ったら何もできなくなるじゃん」という風に思われることでしょう。しかし、だからといって無視したら物事は一向に良くならいと思います。これは五輪に限りませんが、こうした時に割を食うのは往々にして、常日頃から構造的に不利な立場に置かれ、不可視化されてきている人びとです。

前の東京五輪のときに、労働力として開発を支えた日雇い労働者たちはその後不況や建設業などの現場の変化のなかで仕事を失い、野宿者になっている人もいます。こうした人びと(全員が日雇い労働経験者ではありませんが)が今度は五輪開催で不利益を被る可能性があるのです。こうした事態を見なかったことにして五輪を楽しむのはちょっとグロテスクじゃないでしょうか?

そもそも五輪に反対だという人もいるでしょうが、五輪を楽しみにしている人にこそ、ちょっと立ち止まって考える機会を持っていただけたらいいな、と思っています。


※1 なお、「生活保護受ければいいじゃん」と思う人もたぶんいるかと思いますが、ネカフェに寝泊まりしながら働いている人の場合、収入がある程度あるために制度が使えないこともあります。また居所(アパート等)がない場合、東京で生保の申請をすると(どことは言いませんが)かなり劣悪な施設に入れられてしまうことがままあります。他にもさんざん嫌な思いをしてたり、身一つで稼いできた経験を持つ人は制度を使うことをためらうこともあったりします。いろんな事情があるのでそれらを無視して「自己責任」と片付けるのは物事を単純化しすぎだろうと思います。
また、IOCは「ダイバーシティ&インクルージョン」という方針を謳っていますが、とくに後者について付記しておきます。「インクルージョン」ないし「包摂」というのが何を意味するのかは必ずしも明らかではないですが、しばしば意思決定プロセスなどの場面における「代表representation」と関連づけられることがあります。そのとき、気をつけなければいけないのは、「何(誰)がある集団を代表していることになっているのか」を誰がどうやって判断するのかという問題です。簡単に言ってしまえば、「包摂」というのはしばしばマイノリティの意見を聞いたという「アリバイ作り」として利用することができる、という問題があるのです。

※2 何かしらの場面で「テロ対策」とか「安全・安心のため」という大義名分が登場してきたときは要注意だな、と個人的に思っています。なぜならそれはほとんど誰もが大切だと思うような価値であり、かつ不確定な未来に関するものであるため、それを理由とした介入を簡単に、しかも(ほぼ)際限なく正当化できてしまうからです。

※3 ここで述べていることはJohan Galtungという人の1969年の有名な論文、「Violence, Peace, and Peace Research」で論じられている「構造的暴力」とかなり近いかと思います。そしてここで述べていることは民族差別や性差別などにもかかわってくる問題でもあると思います

※4 個人と社会の関係とどう捉えるのかとか、そもそも「社会」なるものをここで述べているような捉え方をすべきなのかといった大変に面倒だけど重要な問題はここでは割愛させてください。