そもそも『私』って?


#私らしいはたらき方

少し前、ニュースに学校の校則が活発に取り上げられたのをご記憶の皆さんも多いのではないでしょうか。この時に盛んにコメンテーターの口から出たのは『~らしさとは何か』でした。中学生らしい服装、男の子らしい髪型、女の子らしい喋り方・・・。LGBTへの差別禁止どころか、そこにそもそものヒトとしての違いを認めない昨今の世の中に有って、振り返れば何とも差別的な教育現場だったのでしょうか。いずれ行きつけば『女々しい』『雄々しい』と言った言葉そのものも問題視される日すら来るのでしょうか。

話が逸れました。言いたいのは『◎◎らしさ』は周囲の環境で大きく変わるのもので、普遍的な定義は出来ないのではないかというのが持論だという事です。ただし『私らしさ』については『私が私の有るべき姿』を定義しさえすれば良いのだとすれば、小拙事で申し上げるなら『正直』『真面目』『頑張り屋さん』と言ったところでしょうか。

私の有るべき姿を定義してそれを私らしさと捉えたとき、思わず私の口を突いて出た言葉は『ウソつき』でした。そう、私は正直者で有りたいと願いながらそれをあまた裏切り、真面目な振りは上手くなっても真面目ではない。『頑張り屋さん』?ため息しか出ません。では私とは、私らしさとは、そして『私らしいはたらき方』とは一体何なのでしょうか。

しばらく筆を休め自問自答に更け入りました。こんな事は考えた事が有りません。確かな事は、私が考える私の有るべき姿と私自身はかけ離れている存在であること。では私は嘘つきな役立たずなのかといえば、断固として否定したいし、まがりなりにも会社員でいられているのだから、そこまではひどくないハズ・・・。

あぁそうか。『私』を決めるのは『私』じゃないのか。『私らしさ』も他の『~らしさ』と同じで周囲の環境によって変わるのか。また小拙の例で甚だお恥ずかしいが『私は周囲の人の役に立ちたいと願い、周囲もそれを享受したいと思っている』そういう環境に居る事で自他共にその存在を認め合っている。その中で存在感を発揮することが『私らしさ』であろう。

話が禅問答のようになったが、『私らしいはたらき方』とは、私が頑張りたいと思える事柄がある職場で、私の働きを周りが認め求めている環境で、自分自身を偽ることなく言動、行動する事ではないだろうか。

そんな職場なんで無いとお嘆きの貴兄のすすり泣きが聞こえて来る。私もそんな上手いこと行かないと思う。しかし、これからの未来へ向かう皆さんには是非ともそういう職場を求め、変えて行って貰いたいと無責任だがそう思う。

戦時中の哲学者は職業にならない。いまの時代に素手で川魚をとる技術は職業にならない。何十億円も稼ぐ野球選手だって、江戸時代に生まれていたら、ただのすばしっこい子供で終わりだったかも。そう、いまの時代に生まれたことも含めて『あなた』であり『私』なのだから変えていかなきゃ。

おしまい

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