あの日のことを知らない
きっと今日はこのテーマのnoteが非常に多いだろう。
わたしはあの日のことを知らない。というか、感じることができなかった。あの日の朝、結婚前最後の母娘旅行に旅立っていたからだ。
行き先は中国・廈門。
今朝、遡ってみたら当時の勤務先宛の「いってまいります。おやすみいただきます!」みたいなメールが出てきた。日付は3月10日夜。
廈門のホテルにチェックインするやいなや、「日本で大変な地震が起きたらしい」と聞く。
慌ててテレビをつける。
飛び込んできたのは火の海の映像。”Tsunami”という言葉。
俄かには、これが今朝旅立った我が国で起こっていることだなんて信じられなかった。何かの間違いじゃない?呆然とするしかなかった。
本当に信じられなかったのだ。
まずは東京に住む父と夫に連絡。国際電話の方がつながりやすかったようですぐに話ができた。都内の実家も食器棚から食器が飛び出し、テレビが倒れているという。夫に連絡を取り、実家の片付けを手伝ってもらえないか頼んだ。
父が電話口で慌ててこういった
「一関のおふくろにつながらない。秋田にも。」
父方の祖母が住んでいる岩手県。そして姉と母方の祖母が住んでいる秋田。
一関は海岸沿いではないものの、隣町は悲惨な状況とニュースで繰り返されている。
あの瞬間にはどこがどんな状態かもわからなかったあの瞬間、電話がつながらないと不安も募る。
もしかして国際電話の方がつながるのでは、と試みるもやはりつながらない。やっと話ができたのは翌日。それでも東京より早かった。
一関も秋田も停電しているという。かなり揺れがひどく、家の壁にはヒビが入ったと祖母の声。
「それでも石巻に比べたらね・・大変なことになったよ」
遠く廈門の地から傍観するしかなかったわたしの耳に、そのことばは深く刺さった。
これは今、確実に日本で起きていることなんだ。これは今、確実に日本で起きていることなんだ。
テレビから流れる、死者数・行方不明者数の数字がどんどん増えていく。
「これ以上は増えないで。」
きっと全国の、いや全世界の人がそう祈っただろう。
それでも、数字は増え続ける。無残だ。あまりにも無力だ。
現実だなんて思いたくないくらいたくさんの尊い命、生まれてくるはずだった命が失われた。
そして10年が過ぎた。
子どもたちは、あの日のことを知らない。
そして、あの日日本にいなかったわたしは、いつまでも自分の中で手触り感がない。不謹慎な言い方だが、まだ生まれていなかった子どもたちと同レベルだ。
「あの日、どこにいた?」「帰宅できなくて何時間も歩いたよね」
そんな会話の横で、なんだか後ろめたいような気持ちになるわたしがいる。
だから知らないと、忘れないでいようと、子どもたちに伝えないと。
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