見出し画像

第0.5話 最高に楽しい夜の先にはー惣邑から豊盃へー

1.長い前置き
 2022年8月15〜28日にかけて「臨時開校」と題し、5人の学生がSENNに滞在した。そのことについては次回記すこととして、今回は札幌に戻った直後、9月4日の夜について書きたい。

 前日の9月3日にも、この夏をSENNで過ごした学生と北大付近で会っていたが、この日は休暇を兼ねて小樽へ。6月にSENNを訪れてくれた宮崎君が付き合ってくれた。宮崎君とは、私が2019年3月22日に北海道大学遠友学舎で開催した「SAIHATE LINES 2019」と題したイベントで声をかけて以来の仲である。同イベントは「北大の野生を取り戻す」をコンセプトにしており、北大の音楽性を表現するためにはどうすればよいか。当時の私は、模索する日々を送っていた。その最中、大学の掲示板に貼られていた北大写真部のチラシが気になった。上質な紙を使い、丁寧に枠取られた中に写真と「部員募集」の文字。荒々しさはないかもしれないが、逆に枠を意識する、遵守することの美しさが現われている気がした。すぐさま連絡を取ると、当時部長の宮崎君が対応してくれて、何枚か「北大の野生」をキーワードに写真を送ってくれた。この「SAIHATE LINES 2019」と題したイベントが、「関係学舎 SENN」の根っこにもあるのだが、当時の自分はひどく疲れていた。自分が言い出して始めたイベントだが、なかなかついてきてくれる人がいない。それは、もちろん私自身の力量に拠るところが大きいのだが、このとき「能動/受動」のことをよく考えるようになった。何かをやりたいという始まりは、決して自己完結するものではなく、誰かの意思や思いが自分に投射されて、その相互作用の中から始まっていく。自分だけでは始めようとする出来事は大概のところ陳腐だし、長続きしないし、やる意味を感じない。でも、その「能動/受動」のバランス、均衡が崩れるとイベントは負荷がかかり、辛いものになる。SAIHATE LINES 2019は、「自分のため」でもあり、「誰かのため」でもあった。しかし、準備を進めている過程で、「自分のため」として見られ始めていることが歯がゆく、苦しく、もどかしかった。そんな疲労困憊の自分にとって、宮崎君が送ってくれた北大の写真は清涼剤のように、自分に浸透してきた。ある日の、なにげない北大を切り取った断片。それが、何より愛おしく最高な瞬間だったと改めて感じた瞬間だった。

 その後、イベントのリベンジを果たそうとした自分は、2019年の9月、徳島県の祖谷にいた。宮崎君も同行していた。明らかに負荷がかかっていたのに、あのイベントを日常化するための手がかりを探しに来ていた。必死になって、手探りの中、フィールドワークをし、文字通り息も絶え絶え、立ち上がられないほど疲れる自分を、当時の学部生の宮崎君はどう見ていたのだろうか。その後は、もう何もかも疲れ果て、長井を再訪することもないと思っていた頃から早3年。今も、ときおり疲れ果ててしまうことに変わりはないけど、それを自覚できるくらいにはタフになった。そして、何かをやる、その内容自体が必ずしも重要ではなく、常に訪ね歩く、その行為自体の大切さや面白さも少しずつは理解できてきたと思う。それは最終的に「研究という実践」に結実していくはず。その思いが今の自分を支えている。

徳島祖谷の朝

 宮崎君が書いてくれた「井原から長井へ(Vol.4)」には、その冒険譚の一節が描かれている。また、ノートの最後には、こう記されている。

僕は今、大学院の修士2年生で、来年からも博士課程で3年間大学に通う予定です。一番頑張る予定なのが研究ですが、今まで通り写真撮影も精力的に行っていきたいと思っています。
 そして、前々から博士課程の3年間が終わったとき、卒業写真展をしたいと考えていたのですが、写真展示に加えて研究内容(プラズマです)も簡単にでいいので、展示して見てもらえる機会を設けたいなと思うようになりました。これが今回の旅の途中で考えていて、やろうと心に決めたことです。
 今回SENNの中を見て、写真展示に向いてそうだなと思ったので、もしかしたらSENNで僕の卒業記念で写真展(+簡単な研究内容発表)のようなものを開催するのも良いなと思いました。

 これは期せずして、私が「SAIHATE LINES 2019」を通してやりたかったことの一つのかたちである。ぼくらの文楽の主催者も、祭をやったあとの意味は長い年月をかけて帰ってくると言っていたが、彼が、私の姿勢から何かを感じ取ってくれているのなら嬉しい。

2.再会の連続
 前置きが長くなってしまった。宮崎君との出会いを機に、北大写真部の展覧会には定期的に訪れるようになり、この日も、北大近くで開催されていた「夏展」に立ち寄ったあと、小樽へ向かった。

 

 札幌に戻ったのもつかの間、身体が日常に戻っていない状態で小樽に向かう。まずは、一つ手前の南小樽駅で歩き、温泉が湧いている銭湯へ。観光客よりも、日常の市民の方の活気に湧く銭湯だった。

 その後、今回の旅の目的の「小樽 鉄路 写真展」へ。

 旧国鉄手宮線を舞台に、多種多様な写真の担い手が、思い思いのかたちで写真を展示していた(偶然札幌駅で開催されていた「鉄道開業150年のあゆみ」によると、開拓使が幌内~札幌~手宮間の鉄道敷設を決定したのは1879年(明治12年)。イザベラ・バードが山形を旅した3年後、札幌農学校が開校した翌年の出来事だ)。その中には、宮崎君の出身地である青森県弘前市の写真もあった。写真という媒体の性格上、その偶然の発生確率は比較的高いのかもしれないが、それでもその出会いが嬉しかった。また、小樽在住の学生の写真展示を発見し、当地で生活する人の表現に触れる旅の醍醐味を味わった。

 すでに心が十分満たされた状態で、本日の宿泊先である「Otaru Tap Room」へ。ちょうど旧手宮線跡の、その先に宿があった。

 せっかく小樽に行くなら「関係案内所」的な場所の視察も兼ねて、と選んだのがこちら。1階の受付がビアバーになっていて、ウエルカムドリンクとして、クラフトビールを飲むことができる。部屋に荷物を置いて、余市産白ぶどうを使用した「ナイアガラエール」を頂き、この後の食事場所を決める。店を出るときのさりげない「いってらっしゃい」が嬉しい。個人的には「さりげない」ホスピタリティが好きで、相手によって「能動/受動」の調節をしてくれるとこちらも無理せず過ごすことができる。

 これぞ小樽な風景を横目に、涼しい夜道を歩いていく。



 まず、夕食に向かったのは、回転寿司の「とっぴー 小樽店」。コロナ禍、札幌の自宅近くにあった桑園店によく通っていたが、いつの間にか閉店していた。店内に入ると、一番最初に目に飛び込んできたのは、桑園にいた女性の店員さん。当然向こうは覚えてないだろうが、私は入店した瞬間、すぐに認識した。私にとって、飲食店は味もそうだが、そこに誰がいるかも重要なので、この再会は嬉しかった。

 夜の手宮線跡を歩きながら、商店街に入り、次なる目的地の「銘酒角打ちセンターたかの」へ。

 店の入り口で飛び込んできたのが「豊盃」。またしても「弘前」との出会いだ。

 2階にある角打ちで大将の話を聞くと、10年以上もかけて弘前に通い、豊盃の特約を取り付けたとのこと。年月をかけて通うことの意味が、店の雰囲気にかたちとなって現れ、それを味わうことができる。最高の瞬間だった。

 弘前出身の宮崎君とは弘前話で盛り上がり、大将は自分が研究者として大成してほしいと、ここに通う常連の研究者の話をしてくれた。こうなると、どんどん関係の連鎖が起っていき、隣席の常連客と自分が「東急目黒線」、「大岡山」、「奥沢」というキーワードで繋がっていく。

 実はこのお店を訪れたのは2回目で、前回は2016年の10月30日。私が長井に来るきっかけとなった「フェス観測会 2016」と題したイベントの打上でこの場所を訪れていた。偶然の連鎖で言えば、このとき居合わせたお客さんのお店に私が偶然訪れ、店主の方からその話を聞かされたこともある。

 こんな幹の太い関係案内所に出くわすと、到底太刀打ちできないと言うか、ここまでに至る必然の積み重ねは、筆舌に尽くしがたいものがあるのだろうと、僭越ながら想像する。

 夜の旧手宮線跡を辿り、途中JAZZ 喫茶「フリーランス」(今調べたら私の生まれた年にオープンしていた)に立ち寄り、帰路に着く。酔っ払っておぼつかない私の足元を宿の人がさりげなく照らしてくれた。


3.最高に楽しい夜の先には

 必然ではないかと思わせるような偶然が重なる旅は、偶然には起こらない。この後、待ち構えているというか、今直面している課題は「宿のプレイイヤー」としての側面と「研究者」の側面にどう折り合いをつけるかということ。プレイヤーに徹したら、自分の場合は退屈してしまうだろう(真のプレイヤーには太刀打ちできない)。だから、偶然が起こることの意味を言葉や何らかのかたちにアウトプットして、それが宿に投影される。それが、今見えている循環のかたち、いい流れなのかもしれない。それを考え続けること。そのことの確かさをこの旅で学んだ気がする。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?