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長井を訪れて考えたこと(Vol.5)


滞在初日、津嶋神社では黒獅子祭りが執り行われていた。

「関係」について考える

 「関係」について考えようとするとき、「関係」それ自体はどこかへ飛んでいってしまうような気がする。「関係」とは何なのか考えようとしても、私が埋めていくのはあくまでも「関係」の外側の情報であって、「関係」そのものの情報ではない。

 「関係」、それ自体は空虚なことばである、と私は思う。たとえば、「過疎」ということばは、日本の「地方」と呼ばれる地域に訪れれば、実感として伴う。けれども、学術用語として「過疎」を捉えようとするとき、その曖昧さという問題点はずっと指摘され続けてきた。
 「関係」という概念も、つねに生活のそばにあり、人は誰しもその意味を理解しているはずなのに、いざ、それが何なのかと尋ねられると、私は返答に困ってしまう。
 
 そんな素朴な感触をもとに、私はこの文章を書きはじめている。そして、文章を書きながら、山形県長井市に滞在した8月下旬の2週間について振り返っている。

「関係」についての試論

 この文章を書いているのは10月上旬で、長井市を去ってから1ヶ月と少しが経ったことになる。
 長井市での2週間は、長井市、そして、関係学舎SENNという空間に身をおき、関係人口とは何かを考えた2週間だった。
 
 関係人口とは何か。この問いに対して、自分がここで論じるよりもはやく、さまざまな学術的定義が試みられてきた。けれども、私はここで、これまでの学術的定義について論じたいわけではない。一方で、「関係人口とは何か」という問いに対して自分なりに返答したいわけでもないし、無理にそうするべきだとも思わない。ただ、長井市での2週間で、実際に「関係」のなかに身を投じたという、その事実が私自身にある。

 あの2週間で感じたのは、「関係」とは、構築しようとするものではなくて、自ずと構築されていくということ、そして、「関係」の外側にあると思っていたものが、じつは「関係」そのものなのではないか、ということだった。

 山形空港に降り立った8月15日、私は、同じく学生として長井に訪れた内村君とともに、JANの直記さんが運転する社用車に揺られながら、最上川を上るようにして長井市にたどり着いた。
 いま思えば、自分はあの瞬間から「関係」のなかに入りこんでいて、関係人口や「関係」そのものについて考えるよりさきに、みずからの内側で、「関係」とはなにかということについて思いをめぐらせていたのかもしれない。

 そして、「関係」の外側にある(ようにみえる)ものは、「関係」が表象されるよすがになっているのではないか、ということを考えた。
 これは、景観の概念にすこし似ている。たとえば、文化庁は文化財としての「文化的景観」制度を創出し、全国から選出しているが、ここでの「文化的景観」の定義は以下のようになる。

地域における人々の生活又は生業及び当該地域の風土により形成された景観地で我が国民の生活又は生業の理解のため欠くことのできないもの

文化庁「文化的景観」https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/shokai/keikan/ (2022年10月8日最終閲覧)

 景観は、有形文化財とはちがって、ある特定のかたちを持たないし、その様相は日々変わり続ける。そして、景観とは、その土地の人々の生活や生業の歴史が何らかのかたちで表れたものの総体である。
 「関係」もそのような性質をもつのではないか。「関係」それ自体が何かをさし示すことはできないけれど、日々の生活のなかにある気付きや誰かとのやりとり、出来事、空気、会話…。
 そういったものの総体が「関係」そのものなのではないか。長井に身をおきながら、そんなことを考えていた。

ふたたび長井へ

 長井を去る前日の8月27日、私は山崎さんと共に18きっぷを手にしていた。長井から山形市、新庄、酒田、鶴岡、村上というように、山形を内陸から庄内へ、さらには新潟へと普通列車で旅をしたのである。
 その日の旅の終着点は長井にほど近い小国町だった。こうしてみると、山形県内、内陸部と庄内、置賜、そして最上川の舟運の歴史と、長井をさまざまな「関係」のなかでとらえることができたように思う。というよりも、おのずとその「関係」を体感していた。

 11月には「みんなの文楽」でまた長井を訪れる。そのときには、いままでみえなかったものがみえてくるかもしれない。


小国の駅前。山なみが迫っていることがわかる。

執筆者

古玉 颯
東京大学大学院総合文化研究科修士1年 専門は人文地理学。
滞在日:2022/08/15~08/28


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