斉藤高政と秦始皇帝
※太田牛一『信長公記』
合戦に打ち勝ちて、首実検の所へ、道三が首、持ち来たる。此の時、「身より出だせる罪なり」と、得道をこそしなりけり。是れより後、「新九郎はんか」と名乗る。古事あり。昔、唐に、「はんか」と云ふ者、親の首を切る。夫の者、父の首を切りて、孝なすとなり。今の新九郎義龍は、不孝重罪、恥辱となるなり。
「長良川の戦い」で父・斉藤道三を破った子・斉藤新九郎高政は、
──(父親殺しは)我が身から出た罪である。
と言って出家した。そして「斉藤新九郎高政入道范可(はんか)」と名乗った。昔、唐(中国)に、范可という者がいて、親の首を切って親孝行したが、今回の斉藤高政は、親不孝の重罪を名前で示して恥辱となった。
そう上掲『信長公記』にあるが、「唐(もろこし)の范可の故事」を誰も知らない。中国文学の研究者も知らない。しかし、斉藤高政と太田牛一は知っていた。そんな有名ではない話を知っているとは、斉藤高政は、始皇帝については熟知していたのではないだろうか?(以下は門外漢の戯言。)
秦始皇帝の父・異人(姓は嬴(えい)。諱は始め異人(いじん)、後に楚の公女・華陽夫人を呂不韋の策で養母にして「子楚(しそ)」と改名した。昭王の子・安国君の子であるが、正室・華陽夫人の子ではなく、側室・夏姫の子であった)は、秦の政治家(司馬遷『史記』「呂不韋列伝」では韓の陽翟の豪商)・呂不韋の妾 ・趙姫が気に入り、譲り受けると、男児を授かった。諱「政」と名付けられたこの子は、秦ではなく、趙の首都・邯鄲で生まれたため「趙政」、あるいは、「嬴政」と呼ばれた。(姓が嬴(えい)、氏が趙(ちょう)、諱が政(せい)。後の秦始皇帝である。)
※司馬遷『史記』「呂不韋列伝」
呂不韋者、陽翟大賈人也。往來販賤賣貴,家累千金。
(呂不韋は、陽翟(ようてき)の大商人である。諸国を往来して品物を安く仕入れて高く売り、家に千金の財産を累積した。)
秦昭王四十年,太子死。其四十二年,以其次子安國君為太子。安國君有子二十餘人。安國君有所甚愛姬、立以為正夫人、號曰華陽夫人。華陽夫人無子。安國君中男名子楚、子楚母曰夏姬,毋愛。子楚為秦質子於趙。秦數攻趙,趙不甚禮子楚。
(秦の昭王(昭襄王)の40年(前267年)、太子が死んだ。その42年に、その次子の安国君(あんこくくん)を太子にした。安国君には、子が20余人いた。安国君にはとても寵愛している姫がいて、その姫を正夫人にして華陽夫人(かようふじん)と号した。華陽夫人には子がなかった。安国君の中の子供に子楚(しそ)という名の者がいて、子楚の母を夏姫(かき)といったが、夏姫は安国君に愛されてはいなかった。)
(中略)
呂不韋取邯鄲諸姬絕好善舞者與居、知有身。子楚從不韋飲。見而說之、因起為壽、請之。呂不韋怒。念業已破家為子楚、欲以釣奇。乃遂獻其姬。姬自匿有身、至大期時、生子政。子楚遂立姬為夫人。
(呂不韋は、邯鄲の姫の中で、容姿が素晴らしく、舞いの上手な者を手に入れて同居していて、彼女は身ごもっていた。共に暮らしていた。子楚は呂不韋に招かれて酒を飲んだ。彼女を見て気に入り、呂不韋の長寿を祈念し、彼女を求めた。呂不韋は怒った。とはいえ、よくよく考えれば、「奇貨居くべし」と、今まで自分の財産を傾けてまで子楚のために助力してきたのは、この貴重な人物を釣りあげたいと思ったからある。そこで、その姫を献上した。姫は自分が身ごもっていることを隠し、妊娠満期に至って、「政」を生んだ。それで子楚は姫を正室に立てた。)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1118539/252
※「奇貨(きか)居(お)くべし」
https://dictionary.sanseido-publ.co.jp/column/kotowaza23
始皇帝の父・子楚は、やり手の呂不韋と、「秦を得たら分割統治する」という約束で、手を組んだ。子楚は呂不韋の愛妾・趙姫を気に入り、譲り受けて正室とすると、政(後の始皇帝)が生まれた。
実は、子楚と結婚した時に、趙姫は妊娠しており、政は、子楚の子ではなく、呂不韋なのである!
美濃半国(西美濃)を領した斉藤道三は、西美濃稲葉一鉄の姉・深芳野を側室とし、東濃への入口を領する明智氏の娘・小見の方を正室とした。斉藤道三は、深芳野との間に斉藤高政を儲けた。
この「美濃国一の美女」と言われた深芳野は、実は土岐頼芸の愛妾であり、斉藤道三が気に入って譲り受けたのであるが、その時、深芳野は、土岐頼芸の子を身に宿していた。斉藤高政は、斉藤道三の子ではなく、土岐頼芸の子なのである!
始皇帝は、即位すると、実父・呂不韋を追い出し、中国統一戦を始めた。秦は中国の西端にあるので、その戦いは東征である。韓、趙、魏、楚、燕と征服し、最後は徐福のいる斉であった。(斉は戦わずして降伏した。)
始皇帝は、方士の「東南方向から天子の気が立ち込めている」との言を受け、第4回巡遊は東南へ向かった。そして、沙丘の平台(現在の中国河北省邢台市広宗県)で病死した。死因は、「長生不老の薬だ」と言われて飲んでいた水銀による中毒死とも、暗殺(趙高と李斯による毒殺)とも。享年は織田信長と同じく49。
斉藤高政は、美濃統一戦を始めた。西美濃は領しているので、その戦いは東征である。まずは、東濃への入口である明智城を落とした。さらに東征したかったが、尾張国の織田信長がちょっかいを出してきた。斉藤高政は、今川義元に織田信長を倒してくれるように頼むが、その今川義元は、永禄3年(1560年)5月19日に桶狭間で討たれてしまった。そして、翌・永禄4年(1561年)5月11日、斉藤高政は病死した。享年35。死因は癩病とも、狐憑きともいわれる。
★史実:始皇帝は誰の子?
司馬遷『史記』「呂不韋列伝」や班固『漢書』には、呂不韋とあるが、『史記』「秦始皇本紀」では触れられていない。どうも単なる噂に過ぎないようだ。
★史実:斉藤高政は誰の子?
斉藤高政は、斎藤道三が結婚して1年半後に生まれているが、江戸時代の読み物では、「半年後に生まれた」と史実を曲げ、さらに土岐頼芸の子としている。
美濃衆が斉藤高政に従ったのは、「稲葉一鉄の姉の子だから」ということもあろうが、「斉藤道三の専横」を否定し、「国衆による合議制」を取り入れたことであって、「土岐頼芸の子だから」ではない。
『麒麟がくる』の斉藤高政の最後の登場シーン
「わしの家臣にならぬか?」
悪くはないが、私が脚本家だったら、
「父・道三は独裁者であった。わしは鎌倉殿に見習って合議制にした。加わらぬか?」
と番宣するけどね。
『鎌倉殿の13人』(作・三谷幸喜)
三谷幸喜、「新選組!」「真田丸」に続く3作目の大河ドラマ執筆!
新しい大河ドラマを作ろうと、『こんなタイトル、今まで絶対になかった』というものにしたいと思い、試行錯誤を重ねて、最終的にこの『鎌倉殿の13人』というタイトルに決まりました。
『鎌倉殿』とは、鎌倉幕府の将軍のことです。頼朝が死んだあと、2代目の将軍・頼家という若者がおりまして、この頼家が2代目ということもあって、『おやじを超えるぞ!』と力が入りすぎて暴走してしまう。それを止めるために、13人の家臣たちが集まって、これからは合議制で全てを進めよう、と取り決めます。これが、日本の歴史上、初めて合議制で政治が動いたという瞬間で、まさに僕好みの設定です。今はまだ、この13人の名前をご存じの方はおそらくほとんどいないでしょうが、このドラマが2022年にオンエアされて、その年の暮れぐらいになると、もう日本中の皆さんが13人全員の名前を言えるようになると確信しております。
この13人が勢力争いの中で次々と脱落していくなか、最後に残ったのが「北条義時」です。いちばん若かった彼が、最終的に鎌倉幕府を引っ張っていく最高権力者になる。そこまでを、今回のドラマで描いていきたいと思っています。
この時代は本当におもしろい。おもしろいドラマ、おもしろい物語の要素が全部詰め込まれている時代です。僕の頭では想像もつかないようなドラマが、この鎌倉時代に実際に展開していて、それを大河ドラマとして手掛けられるのは、本当に脚本家冥利みょうりに尽きると思っております。
https://www6.nhk.or.jp/nhkpr/post/original.html?i=21781
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