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新田義貞公墓所

「新田義貞のお墓って、どこにあるか知ってる?」

と聞くと、ほどんどの方が

「新田塚」

と答えますが、新田塚は「燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地」です。

 明暦2年(1656年)、燈明寺畷古戦場から新田義貞着用の兜と鎧が出土しました。(兜は藤島神社、鎧は称念寺に納められています。)
 万治3年(1660年)、福井藩主・松平光通は、発見場所に「暦応元年閏七月二日 新田義貞戦死此所」刻んだ石碑を建てたことから「新田塚」と呼ばれるようになりました。

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石碑は福井大地震で倒れて上部が折れ

さらに3つに割れたとのことです。

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こちらが墓所

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お墓

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案内板「新田義貞公と称念寺」

 称念寺は時宗の長崎道場と呼ばれ、正応3年(1290)時宗二代目真教上人を、当時の称念房がしたって建物を寄進しました。
 南北朝の騒乱の時代、新田義貞公は南朝方として戦いましたが、暦応元年(1388)に灯明寺畷の戦いで戦死しました。その遺骸は時宗の僧八人に担がれて、称念寺に手厚く葬られた事が太平記に記録されています。
 室町将軍家は、長禄2年(1458)安堵状と寺領を寄進し、将軍家の祈祷所として栄えました。そして、寛正6年(1465)に後花園天皇の綸旨(りんじ)を受け祈願所となりました。さらに後奈良天皇の頃には、住職が上人号を勅許されるなど、着々と寺格を高めていきました。
 永禄5年(1562)には浪人中の明智光秀公が称念寺を訪ね、門前に寺子屋を建て生活しました。江戸時代の松尾芭蕉は称念寺を訪ね、その頃の光秀夫婦を『月さびよ 明智が妻の咄(はなし)せむ』と詠んでいます。
 徳川将軍家は新田氏が先祖にあたるということで、その菩提所を大切にしました。しかし、明治の版籍奉還により、寺領が没収され、無檀家になり称念寺は無住になりました。新田義貞公や称念寺の歴史を惜しむ人々が力を合わせて、大正13年(1924)にようやく再建しました。
 ところが、昭和23年6月28日にこの地方を襲った福井大地震により、再び称念寺は壊滅的な打撃を受けました。檀家がないため、一時は存続すら危ぶまれましたが、多くの人々の協力により復興ができました。
(注)「江戸時代の松尾芭蕉は称念寺を訪ね、その頃の光秀夫婦を『月さびよ 明智が妻の咄(はなし)せむ』と詠んでいます」とありますが、松尾芭蕉は称念寺を訪れていませんし、「月さびよ」の俳句は、『奥の細道』の旅を終え、伊勢神宮に参拝した時、門人・又幻の妻に明智光秀の妻の姿を見て詠んだものです。

『俳諧勧進牒』

 伊勢の国、又幻が宅へとどめられ侍る比、その妻、男の心にひとしく、もの毎にまめやかに見えければ、旅の心を安くし侍りぬ。彼の日向守の妻、髪を切りて席をまうけられし心ばせ、今更申し出でて、
  月さびよ明智が妻の咄しせむ

『太平記』巻20「義貞自害事」

 尾張守此首を能々見給て、「あな不思議や、よに新田左中将の顔つきに似たる所有ぞや。若それならば、左の眉の上に矢の疵有べし」とて自ら鬢櫛を以て髪をかきあげ、血を洗ぎ土をあらひ落て是を見給ふに、果して左の眉の上に疵の跡あり。是に弥心付て、帯れたる二振の太刀を取寄て見給に、金銀を延て作りたるに、一振には銀を以て金膝纏の上に「鬼切」と云文字を沈めたり。一振には金を以て、銀脛巾の上に「鬼丸」と云文字を入られたり。是は共に源氏重代の重宝にて、義貞の方に伝たりと聞れば、末々の一族共の帯くべき太刀には非と見るに、弥怪ければ、膚の守を開て見給ふに、吉野の帝の御宸筆にて、「朝敵征伐事、叡慮所向、偏在義貞武功、選未求他、殊可運早速之計略者也」と遊ばされたり。さては義貞の頚相違なかりけりとて、尸骸を輿に乗せ、時衆八人にかゝせて、葬礼の為に往生院へ送られ、頚をば朱の唐櫃に入れ、氏家の中務を副て、潜に京都へ上せられけり。
(注)往生院:往生院長崎道場。称念寺の塔頭。

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