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金原明善 「暴れ天竜」と「・・・・・」

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金原明善キタ━━━(゚∀゚).━━━!!!

金原明善が全国区になる日が来るとは・・・

磯田先生は京都の前は浜松に住んでおられたので、

金原明善をご存知なのかな?

上の地図の水色部分は、今まで川だったところ。

天竜川は「暴れ天竜」と呼ばれ、

洪水のたびにその流路を変えたそうですが、

基本的には、二俣城で有名な天竜区二俣で2又に分かれます。

西が「小天竜」(古代の荒玉河(麁玉川)。現在の馬込川)で、

東が「大天竜」(現在の天竜川)ですが、

江戸時代までは、大小逆だったとか。

また、長上郡から麁玉郡にかけて

「袖ヶ浦」(後の長上湿地)があったようです。

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 天竜川の治水工事(堤防工事)がいつから始まったのかは、分かりませんが、7『続日本紀』(巻23)天平宝字5年7月辛丑(761年7月19日)条に

「遠江國荒玉河堤决三百餘丈。役單功卅万三千七百餘人。充粮、修築」
(遠江国(静岡県西部地方)の荒玉河(麁玉川)の堤防が約300丈(約900m)決壊したので、延べ約30万3千7百人を徴集し、食糧を与えて修築した。)

とあります。「761年に900m修復」ですから、「堤防は761年以前に900m以上の長さで築かれた」ということが分かります。
(30万人・・・1日3000人で100日間(3ヶ月)の工事?)
なお、この堤防は、修復した時の年号により「天宝堤」とよばれています。

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「麁玉(あらたま)」は、「有玉(ありたま)」に変わりました。

 坂上田村麻呂と袖ヶ浦の大蛇との間に生まれた坂上俊光は、母から「潮干玉」を与えられたそうです。浜松平野が天竜川の氾濫で水浸しになっても、その玉を使えば水が引くそうです。現在、その玉は「有玉神社」にあり、坂上俊光を祀る俊光将軍社は、三方原のラブホの横から有玉神社の境内に遷座しています。

 坂上田村麻呂の子に俊光はいませんが、子孫には俊光がいて、遠江国に役人として派遣されたそうですから、その坂上俊光が治水工事の指導をしたのでしょう。それが有玉伝説のモチーフなのかも知れませんね。

 「有玉」地名の由来(「有玉神社」に玉があるから「有玉」で、なぜ玉があるかの理由)の別説に、「日本武尊が投げた火石(火打ち石)が落ちた場所に建てられたのが焼津神社で、水石(市杵島姫神社の神体石)が落ちた場所に建てられたのが有玉神社」がありますが、この火石と水石は、2個とも焼津神社にある(焼津神社の主張)とも、2個とも熱田神宮にある(『平家物語』)とも。

※『平家物語』
 然るに十二代の帝・景行天皇四十年の夏、東夷多く御政を背きて、関東静まらず。 帝の第二の皇子・日本武尊、御心も猛く御力も勝れておはしければ、彼の皇子を遣はして平げしに、同年冬十月に道に出でて、先づ大神宮に参り給ふやまと姫の尊をして、「天皇の命に随ひて東攻めに赴く」由を申されたりければ、崇神天皇の時、返し置かるる天叢雲剣を出だし給ふ。
(中略)
 尾張国に下りて、松子の島といふ所に、源大夫といふ者の家に泊り給へり。大夫に娘あり。名を岩戸姫といひけり。眉、目、貌好かりければ、尊これを召して幸し給ふ。一夜の契り深くして互に志浅からず。かくてもあらまほしく思し召しけれども、「夷を攻めに下る者が、女に付きて留まらん事悪しかりなん」と思はれければ、「帰らん時、又」と憑みて、頓て打出で給ひけり。
 駿河国富士の裾野に到る。その国の凶徒、「この野に鹿多く侯。狩して遊ばせ給へ」と申しければ、尊即ち出で遊び給ふに、凶徒等、野に火を着けて尊を焼き殺し奉らんとしける時、帯き給へる天叢雲剣を抜きて草を薙ぎ給ふに、苅草に火付きて劫かしたりけるに、尊は火石水石とて二つの石を持ち給へるが、先づ水石を投げ懸け給ひたりければ、即ち石より水出でて消えてけり。又、火石を投げ懸け給ひければ、石中より火出でて凶徒多く焼け死にけり。それよりしてぞ、その野をば、天の焼けそめ野とぞ名付けける。叢雲剣をば草薙剣とぞ申しける。
 尊、振り捨て給ひし岩戸姫の事忘れがたく心に懸りければ、山復なり、江復なるといふとも志の由を彼の姫に知らせんとて、火石、水石の二つの石を、駿河の富士の裾野より、尾張の松子の島へこそ投げられけれ。彼の所の紀大夫といふ者の作れる田の北の耳に火石は落ち、南の耳に水石は落つ。 二つの石留まる夜、紀大夫の作りける田、一夜が内に森となりて、多くの木生ひ繁りたり。 火石の落ちける北の方には、如何なる洪水にも水出づる事なく、水石の落ちたる南の方には、何たる旱魃にも水絶ゆる事なし。これ火石、水石の験なり。

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 金原明善の供養塔があるのは、徳川家康が逃げ込み、その返礼に寺領、寺名(妙音寺から妙恩寺へ)、寺紋「丸に二引き紋」を拝領したという橋羽の妙恩寺です。(寺名に「妙」がつくことから分かるように、日蓮宗のお寺なので、寺紋は「井桁に橘」のはずですが、妙恩寺の寺紋は、徳川家康に与えられた「丸に二引き紋」です。)

※妙恩寺公式サイト
http://myo-onji.jp/

 「本家の災害、分家の災害」という言葉があります。本家は災害に強い場所にあるので、「本家の災害は天災であるが、分家の災害は人災である」という考え方(「本家・分家論」)です。(私のような素人には、天災に遭わない強い場所に建てられた本家の災害は、天災であるわけないので人災で、分家は天災に遭いそうな弱い場所に建てられているので、分家の災害は天災だと思うのですが・・・。)

 本家もそうですが、古代の寺社も良い場所にありました。豪雨が降ると、橋羽(旧表記は「端場」)一帯(JR天竜川駅一帯)は水浸しになりますが、妙恩寺は、浮島の如く大丈夫です。

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 さて、金原明善と言えば、「治水・治山」であり、金原明善のおかげで、浜松市天竜区は、「天竜美林」というブランド名の高級木材の産地になれたのですが、現在は、
「『緑のダム』って、実はそれほど効果がないらしい」
「おかげでスギ花粉が・・・」
という批判的な声もあります。

 上の金原明善像は天竜川の河畔にあります。対岸が二俣城です。

 ──なぜこんな場所に?

金原明善の治水といえば、「暴れ天龍」と「・・・・・」

そうです! 「三方原用水」です!

この場所は、三方原用水の水の取入口、明治の井戸櫓です!

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三方原は台地であり、水がないので人が住めませんでした。

徳川家康と武田信玄の「三方ヶ原の戦い」の時は何もなかった。

「三方ヶ原の戦い供養碑(上の写真)がある本乗寺があったのでは?」

いや、なかったですよ。三方原神社も、浜松城内にあった東照宮ですよ。(現在の引馬城跡にある浜松東照宮は新しい神社です。)この本乗寺(日蓮宗なので、寺紋は「井桁に橘」)は、ある大きなお寺の塔頭(寺院内寺院)でしたが、明治の廃仏毀釈で潰されそうになったのを三方原に移転したことで救われたお寺です。何寺の塔頭だったかって? カンの良い方は、もうお気づきでしょう。妙恩寺です。

 三方原用水ができて、畑ができ、人が住むようになり、お寺も建てられたのです。
 畑で何を作ってるかって? 静岡県ですから・・・そう、当時はお茶でしたが、今はジャガイモです。ブランド名は「三方原馬鈴薯」です。白くて美味しいジャガイモ(男爵薯)です!

https://www.youtube.com/watch?v=4Da7pFyuB80

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