徐福と秦氏
『明智軍記』に、明智光秀が詠んだ漢詩が掲載されています。
神島鎮祠雅興催
扁舟棹処上瑤台
蓬瀛休向外尋去
萬里雲遥浪作堆
意訳は「仙人が住むという三神山(蓬莱、方丈、瀛州)へ行ってみたいが、地図はないし、あっても渤海に浮かぶ島だというから、遠いし、波が高くて、たどり着けないであろう。それにしても、この島は素晴らしい! この島に来れば、三神山に来たようなものだ」です。
三神山には不老長寿の薬(一説に紀州熊野の天台烏薬(クスノキ科の低木)、一説に山口県の祝島のコッコー(ナシカズラ)の実)があるといい、その薬を求めて三神山に渡ったのが、司馬遷『史記』に出てくる徐福という人物です。
※三神山:いずれも壺の形をしているので「三壺山」ともいう。要するに火山島ですね。『列子』に「五神山(岱輿、員、方壺、瀛州、蓬莱)は、それぞれ15匹の大亀に支えられていたが、2山は流失して三神山となった」とあります。火山活動により水没したのでしょう。どことなく沖縄諸島やムー大陸のイメージですね。中国沖の島説、台湾説、韓国済州島説、日本説、そして、なんと、なんと、アメリカ大陸説まであります!
※天台烏薬(てんだいうやく):中国の中南部を原産とする低木。『本草綱目啓蒙』(巻30)によれば、独特の芳香を放つ根が胃薬になるとして、薬木として享保年間(1716-1735)に輸入して育てたものが野生化したという。(なんと、なんと、秦の始皇帝の時代、日本にはなかった!)
・中国の天台山のものが最良とされ、「天台」を冠した。
・胃薬になるのは根の肥大した部分で、その形状をカラスに見立てて「烏薬」と呼ぶ(諸説あり)。
徐福については、日本よりも中国の方が研究が盛んです。そして、両国の論文には大きな違いがあります。
中国の論文には「長生不老(不老長寿)の薬(これ以上老いず、長生きする薬)を求めて」とあります。天台烏薬の効能は「活性酸素の除去」です。
「徐福について、長生不老の薬について研究します」と宣言すると、中国の大富豪が、ドンと研究費を出してくれるって都市伝説(?)がありますが、本当でしょうか?
https://www.city.shingu.lg.jp/forms/info/info.aspx?info_id=19105
日本の論文には「不老不死の薬(老いず、死なない薬)を求めて」とありますが、そんな薬はないでしょう。「不老不死の国」ならあります。死者が集まる「常世の国」です。住んでいるのは死んだ人ですので、それ以上老いないし、再び死ぬこともありません。「常世の国」でしたら、熊野から補陀落渡海すれば行けるでしょう。
1.『史記』の「徐福」
『史記』によると、徐福は斉(せい)国琅邪郡徐阜村(現在の中国山東省)出身の道教の方士です。「長生不老」を願う秦の始皇帝(前259-前210)を「東方の三神山に長生不老の薬がある」と騙し、3000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、財宝と財産、五穀の種を持って、始皇帝の圧政から逃れることに成功した詐欺師だそうで、「平原広沢(平野と広い湿地)」を領して王となり、秦へは戻らなかったとあります。(一説に、来日本したので、日本が一気に縄文時代から弥生時代に変わったという。)
司馬遷『史記』に、徐氏(徐一族。徐市(じょふつ)、徐福(じょふく)、徐林(じょりん)、徐明(じょめい))のうちの徐市が「秦始皇帝本紀」に3回、徐福が「淮南衡山列伝」に1回登場します。
※司馬遷『史記』巻6「秦始皇帝本紀」秦始皇28年(紀元前219年)
斉人徐市等上書言「海中有三神山。名曰蓬莱、方丈、瀛洲。僊人居之。請得斎戒與童男女求之。於是、遣徐市発童男女数千人。入海求僊人。
(斉人・徐市らが上書して「海中に三神山あり。名を蓬莱(ほうらい)、方丈(ほうじょう)、瀛州(えいしゅう)という。仙人が住んでいる。身を清めて童男女と共に行かせていただきたい」と頼んだ。そして、始皇帝は、徐市に童男女数千人を預け、出港させて仙人を探させた。)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/958958/129
※司馬遷『史記』巻6「秦始皇帝本紀」秦始皇35年(紀元前212年)
今聞、「韓衆去不報、徐市等費以巨万計、終不得薬」。徒姦利相告日聞。
(今、「韓衆は逃げて報告しないし、徐市らの費用は巨万を数えるが、ついに薬を得ることができなかった」と聞いた。「いたずらに不当な利益を得ている」という告発が、毎日聞こえてくる。)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/958958/136
※司馬遷『史記』巻6「秦始皇帝本紀」秦始皇37年(紀元前210年)
方士・徐市等、入海。求神薬数歳不得。費多、恐譴乃詐曰「蓬莱薬可得、然常為大鮫魚所苦故不得至。願請善射與倶。見則以連弩射之」。始皇夢與海神戦。如人状。問占夢博士曰「水神不可見。以大魚蛟龍為候。今、上祷祠備謹而有此悪神當除去而善神可致」。乃令入海者齎捕巨魚具而自以連弩候大魚出射之。自琅邪北至栄成山弗見 至之罘見巨魚射殺一魚 遂並海西至平原津而病。
(方士・徐市らは、出港して神薬を求めたが、数年経っても得ることができなかった。費用は多額になった。(徐市らは、)咎めを恐れ、詐って言った。「蓬莱の薬は得ることができますが、常に大鮫魚が苦しめるため、たどり着くことができません。願わくは射撃の名手を伴わせていただきたいのです。見つければ連弩でこれを射ます」。始皇帝は、海神と戦う夢をみた。人の形をしていた。夢占いの博士に尋ねると、『水神は見ることができません。大魚、蛟龍がその兆しです。今、お上は神々に祈って祭り、備え、謹まれておりますから、この悪神があるのを当然除去すべきです。そうすれば善神を招くことができます」と答えた。そこで、海に入るものに巨魚を捕らえる道具を持っていくよう命令し、自らは連弩を以って大魚が出ればこれを射ようとした。琅邪から北の栄成山に至る。巨魚を見ることがなかった。之罘に至り、巨魚を見て、(そのうちの)一魚を射殺した。遂に、海に並び、西の平原津(黄河を遡った川港)に至って病んだ。(七月丙寅、始皇帝は東方巡遊中に沙丘の平台で病没した。享年49))
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/958958/139
※「大魚」に「蛟龍」。伊勢湾の「七本鮫」(伊雑宮の使い。『伊雑宮旧記』には、お使い鮫は「一尋鰐」(2m位の鮫(シュモクザメ?))とある)を想起させる。(一説に「七本鮫」とは、「磯部七郷の代表者が揃って伊雑宮に参拝すること」の比喩だという。)
※司馬遷『史記』巻118「淮南衡山列伝」
使徐福入海求神異物、還為偽辭曰、
「臣見海中大神、言曰『汝西皇之使邪?』。臣答曰『然』。『汝何求?』。曰、『願請延年益壽藥』。神曰、『汝秦王之禮薄、得觀而不得取』。即從臣東南至蓬萊山、見芝成宮闕。有使者。銅色而龍形。光上照天。於是臣再拜問曰、『宜何資以獻?』。海神曰、『以令名男子若振女與百工之事、即得之矣』。」
秦皇帝大說、遣振男女三千人、資之五穀種種百工而行。徐福得平原廣澤、止王不來。
(秦の始皇帝は、徐福に命じ、出港させて「神の異物」(長生不老の薬)を探させた。徐福は秦に戻って、次のような嘘を言った。
「私は海上で大神に会い、「お前は西の皇帝の使者か?」と聞かれましたので、「はい」と答えました。続けて「何を探しているのだ?」と聞かれましたので、「寿命を延ばす薬が欲しい」と答えました。神が「お前の秦王からのお礼が少ないので、与えられない」と言い、そこから東南の蓬莱山に連れて行かれ、芝成宮を見ました。使者がいましたが、色は赤銅色で、龍の姿をして光り輝き、光は天を照らしていました。そこで再拝して「どんな物を献上すればよいのですか?」と聞くと、海神は「良家の男、若い女と百工(多くの職人)を献上すれば、求める寿命を延ばす薬が得られよう」と言いました」
これを聞いた始皇帝は大喜びして、3000人の男女、五穀の種、百工を徐福に与えて行かせた。徐福は「平原広沢」(平野と広い湿地)を得て、その地の王となり、秦へは戻らなかった。)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/958961/139
徐福は、中国の東方の島で土地を得て、その土地の王となったとあるのですが、その場所は分かりません。一説に、それは「瀛州」(「東瀛」)であり、日本だといいます。
『隋書』に、「其人同於華夏」(国民の風俗が華夏(「中国」の別名)と同じ)という「秦王国」が登場します。この一支国の東の竹斯国の東の「秦王国」は、山口県豊浦郡豊北町周辺にあった国でしょうか?
※『隋書』(巻81)列伝第46「東夷 俀國」
明年 上遣文林郎裴清使於俀國 度百濟 行至竹嶋 南望聃羅國 經都斯麻國 迥在大海中 又東至一支國 又至竹斯國 又東至秦王國 其人同於華夏 以爲夷州疑不能明也。
徐福は、秦の人ではなく、斉の人です。
★斉派医学の「長生不老」(不老長寿)の薬の探求
①錬丹術:鉱物から仙丹「朱」「光明丹」→水銀中毒、鉛中毒で逆効果
②薬用植物探索:「天台烏薬」「コッコー(ナシカズラ)の実」
★「斉の八神」(原始巫教=卑弥呼の鬼道)→日本神道の原型
・天主→天之御中主神
・地主→地主神社(祭神は地主神=大山祇神(和多志大神))→大国主命
・兵主→兵主神社(祭神は東夷人の首領・蚩尤)→進雄(スサノオ)
・陰主→イザナミ
・陽主→イザナギ
・月主→月読命。天帝に非あれば、麒麟、月を食す(月食)。
・日主→天照大神。天帝に非あれば、麒麟、日を食す(日食)。
・四時主→大歳神=ニギハヤヒ(熊野神社の速玉男命)=徐福?
※『新撰姓氏録』「山城國 神別 天神 秦 忌寸」に「神饒速日命之後也」とある。これでは、「秦氏は徐福(饒速日命)の子孫」になってしまう。饒速日命の子孫は物部氏であって、秦氏ではない。
※司馬遷『史記』巻28「封禅書」(始皇帝の東方巡行)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/958959/102
「徐福日本上陸説」の初出は、後周の僧・釈義楚撰『釋氏六帖』(通称『義楚六帖』)です。冨士山が蓬莱山で、永住した子孫が秦氏だとあります。
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