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『東京城址女子高生』

 3月はいろいろあって、買った本を読んでいない。

 その1冊が3月15日発行の『東京城址女子高生』の2巻である。

 まずは渋谷城。

 相模国高座郡渋谷荘(現在の神奈川県大和市渋谷)を本貫地とする渋谷氏は滅亡したが、替わって渋谷荘を領した河崎重国が、渋谷荘司・渋谷重国と称した。(現在、渋谷氏は全国にいる。元関ジャニの渋谷すばるさんは大阪出身だ。ちなみに「谷」は、関東では「や」、関西では「たに」と読むという。)

 相模国の「渋谷」という地名は、『吾妻鏡』(治承4年8月26日条)に「重国渋谷之館」とあるのが文献上の初出で、武蔵国の「渋谷」(現在の東京都渋谷区)については、金王八幡宮の別当寺・東福寺(親王院)の梵鐘の銘文に「後冷泉帝の御世、渋谷の旧号「谷盛の庄」は親王院の地にして七郷に分る。渋谷郷はその一なり」とあるという(筆者未確認)。

※武蔵国豊島郡谷盛庄七郷((現在の渋谷区~港区)
 渋谷、代々木、赤坂、飯倉、麻布、一ツ木、今井

 まとめると、渋谷(神奈川県大和市渋谷)に興った武士が「渋谷」と名乗り、本拠地とした場所に「渋谷」(東京都渋谷区)と名付けたらしい。つまり、東京都渋谷区の「渋谷」は苗字だという。地名が苗字になることは多いが、苗字が地名になることは珍しい。「渋谷」とか「千葉」とかあるが、

・「渋谷区」の「渋谷」は、「渋谷氏の居住地」の意だというが、『新編武蔵風土記稿』では「塩谷」としている。

・「千葉県」の「千葉」は、「千葉氏の居住地」の意だというが、「千葉氏」の苗字の由来は「千葉荘」の荘名である。荘名「千葉」の語源は、「茅ヶ崎」(茅が生えている崎)同様、「茅場」であろう。

とも。

※渋谷区公式サイト「地名の由来」
 いくつかの説がありますが、定説はありません。
 昔、この付近は入江であり、「塩谷の里」と呼ばれていました。その「塩谷(しおや)」が「渋谷(しぶや)」に変わったとする説。
 平安時代の終わりごろ、このあたりの領主は河崎重家でした。河崎重家は京都の御所に侵入した賊を捕えました。この賊の名を渋谷権介盛国といいま した。そこで、堀川の院は、河崎重家に「渋谷」の姓を与えました。このことから、重家の領地であった谷盛庄が「渋谷」に変わったとする説。
 この地を流れる川の水が、鉄分を多く含み、赤さび色の「シブ色」だったため「シブヤ川」と呼ばれていたとする説。
 渋谷川の流域の低地が、しぼんだ谷あいだったからとする説。

※金王八幡宮公式サイト「渋谷金王丸常光」
 渋谷金王丸常光(しぶやこんのうまるつねみつ)は、渋谷平三重家の子で、永治元年(1141)8月15日に生まれました。重家には子がなく夫婦で当八幡宮に祈願を続けていると、金剛夜叉明王が妻の胎内に宿る霊夢をみて立派な男子を授かりました。そこで、その子に明王の上下二文字を戴き「金王丸」と名付けました。金王丸17歳の時、源義朝に従って保元の乱(1156)で大功を立て、その名を轟かせました。続く平治の乱(1159)では義朝は敗れ、東国に下る途中立ち寄った尾張国野間の長田忠宗の謀反により敢えない最期を遂げました。金王丸は、京に上り常磐御前にこのことを報じたのち渋谷で剃髪し、土佐坊昌俊と称して義朝の御霊を弔いました。(平治物語には、金王丸は出家して諸国を行脚し義朝の御霊を弔った、とあります。)金王丸は、義朝の子である頼朝との交わりも深く、頼朝が挙兵の折は、密かに当八幡宮に参籠して平家追討の祈願をしました。


 渋谷城=金王八幡宮へは行ったことがないが、金王八幡宮の社名となった渋谷金王丸のお墓ならお参りしたことがある。それは「珍撓の名水」で有名な珍撓峠(静岡県浜松市北区引佐町渋川珍撓)の近くにある。

 野間から逃れた渋谷金王丸が隠れ住み、74人の追手を倒した後、自刃したという。(「全員倒したんだから、自刃する必要はないと思う」と突っ込んでみる。)戦った場所(田んぼ。現在は茶畑)は血まみれになり、「血田(ちだ)」と呼ばれ、「珍撓(ちんだ)」に変化したという。(現地案内板には「血沢」が「珍田」に変化したとある。)「はた(秦)」が「はんだ(半田)」に変化したようなものか。そもそも「渋川」は「鉄分を多く含む赤い河」の意味であるから、田んぼも赤かったのではと思う。

 「74」という具体的な数字を出されると、信憑性が増してしまうが、史実やいかに?

 以下、高幡城、平山城、本郷城、松本城(夏合宿)と続く。

 『東京城址女子高生』は超お薦め。名作だと思う。

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