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松永久秀の平蜘蛛

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「平蜘蛛釜」案内文
 戦国時代の武将・松永久秀が所有していた茶釜。
 蜘蛛が這いつくばっているような形をしていたことから「平蜘蛛釜」の名が付けられた。
 織田信長への臣従時に名物九十九髪茄子を進呈した久秀ではあったが、それ以降、信長から幾度も所望された平蜘蛛に関しては断っている。
 二度に亘る信長離反の末に久秀は自害。この際、信長の手に渡るのを潔しとしない久秀自身によって打ち壊されたとも、爆死のために爆薬を仕込まれたとも言われている。
 戦乱の後、山城を掘り起こした際に平蜘蛛が出土。信長の手に渡り信長に愛されたと伝えられている。

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原来、京師の産。裁縫(たちぬひ)を業として、家、極めて貧し。三好長慶に属従して、次第に登庸し、長慶卒して後、左道政康等とはかり、将軍・義輝を害し、大和半国を領し、専ら逆威をふるひしかど、信長の鉾先に敵しがたく、城を以て降参做せしが、再び叛ひて、信貴、多聞の両城に篭もり、竟(つひ)に防戦の術つきて、城に火をはなちて自殺す。

【意訳】松永久秀は、山城国西岡の生まれで、家は縫製業を営んでいたが、貧しかった。三好長慶に仕え、認められて出世した。三好長慶の死後、三好政康らと共謀して、室町幕府13代将軍・足利義輝を殺害し(「永禄の変」)、大和国の半分を領し、やりたい放題に暴れたが、織田信長には勝ち目がないと見て、居城・多聞山城を渡して降参し、織田信長に従属した。しかし、織田信長に再び反逆して、信貴山城、多聞山城に篭もり、織田軍に攻められて防戦するも力尽きて信貴山城に火を放って自害した。

※松永久秀の出身地には諸説あるが、五百住説、すなわち、「摂津国島上(しまかみ)郡五百住(よすみ。「いおすみ」の転訛。現在の大阪府高槻市東五百住町)の貧しい農民」、もしくは、「土豪・入江氏と姻戚関係にある摂津国島上郡五百住の土豪」説が有力で、西岡説は、「まつなが」(松永久秀)と「まつなみ」(西岡出身の斎藤道三の父・松波基宗)の混同だというが、『絵本太閤記』では、西岡説を採用し、郷土の偉人「松並」のようになりたいと思って、似せて「松永」と名乗ったとする。

『絵本太閤記』
 抑々此の松永弾正久秀といふは、旧山城国西の岡に何某といへる百姓なりけるが、聡明怜悧にして細少の事にかゝはらず、農夫をきらひ、常に博奕の賭を事とし、放逸なる行跡(ふるまひ)のみなれど、高運にして賭にも負けを取らず、いつしか財宝を貯へ、常に茶事を好み、平蜘といへる釜を市に買ひて秘蔵しけるが、此の釜需(もとめ)しより、猶々富有の身と成り、凡そ心に欲する事、悉く成就せずと言ふことなし。
 爰に始めて大志を起こし、彼の美濃の国主・斎藤道三も古(いにしへ)は西の岡の商人(あきんど)・松並正九郎といひし油売りなりしが、終に美濃一国の主となりしに倣はんとて、「松並」の氏(うじ)に似せて「松永」と苗字を改め、三好長慶に仕へて、祐筆と成り、才智を以て次第に出身し、終に三好が家老と成れり。

┌■────■────┬松永久秀
└松永妙精    └松永長頼(内藤宗勝)─内藤貞弘(ジョアン)
  ‖─入江政重─※松永永種─松永貞徳(連歌師)─松永尺五(朱子学者)
入江盛重

松永永種:父・入江政重の「武家を継がないのなら、「入江」でなく、祖母・妙精の実家の「松永」を名乗れ」という遺言を守り、「松永」を名乗り、武士を捨てたとも、松永久秀の養子となって「松永」を名乗ったとも。
 子の松永貞徳は豊臣秀吉の右筆となり、孫の松永尺五は家譜を編纂した。

松永久秀┬久通─彦兵衛(博多商人)…松永光代(「爆笑問題」太田光室)
    ├長女(→織田信長の養女→伊勢貞為室)
    ├次女(竹内長治室)─竹内孝治
    └養子※松永永種─貞徳─尺五

《松永久秀の最期と平蜘蛛》

「松永、天守に火を懸け焼死」(太田牛一『信長公記』)
「松永父子、妻女、一門、歴々、天守に火を懸け、平蜘蛛の釜、打ち砕き、焼け死に候」(太田牛一『太閤様軍記の内』)
「松永父子、腹切自焼了(腹を切り自焼しおわんぬ)」(『多聞院日記』)

以上、同時代資料の松永久秀の死に様は、「火を放ち、自害」とするが、後の軍記物では、

「首は鉄砲の薬にて焼き割り、微塵に砕けければ、平蜘蛛の釜と同然なり」(川角三郎右衛門『川角太閤記』)

と、爆死して、頭が、割った平蜘蛛同様、バラバラになったことに変わる。
 そして現在、松永久秀は、「平蜘蛛に火薬を詰めて首に掛けて自爆した(平蜘蛛と頭を同時に爆発させた)ボンバーマン」として有名になっている。ちなみに、そうした理由は「織田信長に平蜘蛛を取られ、首を晒されたくないから」だそうだ。
 なお、坂口安吾『堕落論』(『新潮』第43巻第4号(昭和21年(1946年)4月1日発行)掲載)には、鉄砲で頭を撃ったとある。

坂口安吾『堕落論』
私はハラキリを好まない。昔、松永弾正という老獪(ろうかい)陰鬱な陰謀家は信長に追いつめられて仕方なく城を枕に討死したが、死ぬ直前に毎日の習慣通り延命の灸(きゅう)をすえ、それから鉄砲を顔に押し当て顔を打ち砕いて死んだ。そのときは七十をすぎていたが、人前で平気で女と戯れる悪どい男であった。この男の死に方には同感するが、私はハラキリは好きではない。
https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42620_21407.html

異説①:『松屋名物集』には、多羅尾光信が「平蛛の釜、つき集め、持つなり」(砕けた平蜘蛛の破片を拾い集めて復元して所有し)、『天王寺屋会記 宗及茶湯日記(他会記)』には、天正8年(1580年)閏3月13日の茶会で多羅尾綱知が使用したとある。

異説②:柳生藩士・萩原斉宮信之『玉栄拾遺』には、松永久秀が砕いた平蜘蛛は偽物で、本物は「断金の友」(茶の湯友達)の松吟庵(柳生宗厳の弟・重厳)に譲った(松吟庵は「信貴山城攻め」の時、松永久秀に加勢したが、平蜘蛛を託されて信貴山城を抜け出した)とある。(松吟庵が「平蜘蛛」と呼ばれる茶釜を所有しており、「臣按ずるに(筆者(萩原信之)が思うに)、親友の松永久秀から譲り受けた茶釜ではないか」と想像している。)

『玉栄拾遺』
 同[注:天正5年]十月十日、久秀、秘蔵する所の「平蛛」と云ふ茶の湯釜を打ち壊し、糠に詰め、箱に入て信忠に贈る。其の後、野々宮囃子をなし、火宅の門を出ると云ふ時、城に火を懸け自滅す。久通は行方不知と云云(うんぬん)。
 臣、按ずるに、平蜘の釜は、久秀秘蔵する所、信長所望あり。久秀献ぜず。此の事より、君臣不合たり。且、柳生松吟庵は、久秀平日断金の友たり。故に実の平蜘は、此の時、竊(ひそか)に松吟庵え贈る。打ち壊し所は、贋物也と云ふ。松吟庵、代々伝て重器とす。


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