正信偈14「弥陀仏本願念仏 邪見驕慢悪衆生 信楽受持甚以難 難中之難無過斯」

正信偈 14
 
弥陀仏本願念仏 邪見驕慢悪衆生
信楽受持甚以難 難中之難無過斯
 
凡夫が助かることよりも難しいことはこの世にありません。凡夫とはあなたです。私です。邪見(ジャケン)・驕慢(キョウマン)の悪衆生、ただの衆生ではありません。悪の衆生。文字面だけでもう恐ろしいですね。「邪見」とは、独りよがりなモノの見方です。あみだの仏さまが助けると言っているのにそれを疑う、自分の道理をもって疑う、素直に受け入れることのできないことが邪見です。日常生活でもどうでしょうか。それぞれが自分の見方で物事を捉え、他人の見方を受け入れない、このすれ違いが多々の争いを生んではいないでしょうか。「驕慢」はおごりたかぶりの心。自分の能力にうぬぼれるから、おごりたかぶりが生まれます。どうしても謙虚にはいられない姿が驕慢です。南無阿弥陀仏と声に出さなくても拝むだけは拝めるじゃないか、これも驕慢のなすべき業(ワザ)です。頼りにするべきものを頼りにしていません。あみだの仏さまに対するおごりたかぶりです。
 
他人を完全に受け入れるということは、自分をいっさい捨ててしまうことです。私たちにはできません。他の人の喜びも、悲しみも、100%は分かり合えません。我(ガ)がありますから、少なからず妬み、嫉妬、羨み、劣等感、または優越感、複雑な心が起こります。喜びをそのまま一緒に喜べない。悲しみを一緒に悲しめない。そこに、邪見・驕慢の我を見つけることができます。
 
あみだの仏さまは我を捨てました。あなたを助けるためには我を捨てなければならなかった。ともに喜び、ともに悲しみ、必ずあなたを抱いていく、そこには我があってはならなかった。我を捨てることは決して簡単ではありません。存在の自己否定です。しかし、そうしなければあなたとともにはいられないから、自分を捨てた。難中之難。これより難しいことはない。そんな難しいことをやってのけた、それはすべて、あなたを助けるためであります。

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