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【story21】エンタメ支える路地裏-千住暮らし100stories-

遠藤 斗貴彦さん 40歳

架空と想像を実体化

北千住駅東側――千住旭町の中心をまっすぐに伸びる商店街から一歩外れると、賑やかさが嘘のように閑静な住宅街へと変貌する。両側から木々の枝葉がはみ出す細い路地は、昭和にタイムスリップしたようなあたたかさを感じさせる。だが、道を歩く人の姿はない。昼下がりという時間帯のせいなのか……。ふと、一角にある平屋の建物が目に入る。軒下には細長い形の裸電球がいくつもぶら下がり、足元には黄色い草花が咲き乱れている。何かの倉庫だろうか。日差しを浴びて明るい雰囲気だが、なぜか中が気になって仕方がない。誘惑に抗いきれず、ドアを開ける。開けてしまった。やはり倉庫のようだ。壁面を覆う棚。わずかな隙間を埋め尽くすように置かれた段ボールやビニール袋。そこから垣間見えるものは、見覚えのあるような、見てはいけないような……。頭の中で鳴り響く警告を振り切り目を凝らす。と、そこには人間の手や足、骸骨が…! 

などと、思わずホラーやサスペンスの物語を始めてしまいたくなる。作り物とわかっていても、触るのをためらいそうになるこれらを造っているのが、遠藤さんと妻の美生さんによる合同会社TOXICだ。「TOXIC」は「中毒性の」「有毒な」の意味。造型の材料となるウレタンやシリコンをはじめ、「体に良くない材料を使う」ことから命名したという。

ほのぼのとしたたこ焼きの着ぐるみやSF作品のマスク、手足のパーツなど特殊造型の可能性は幅広い

仕事の内容は特殊造型、特殊メイク、着ぐるみ製作など幅広く、映画やドラマ、ミュージックビデオといった映像から、ライブ、アミューズメントパークなど体験を楽しむものまで、活用の場は多岐にわたる。全国でおそらく100人くらいはいるのではないかという同業のクリエイターたちとともに、エンターテイメントの世界を支えている。

「美術さんの用意できないものを造るのが仕事」と遠藤さん。一般の人には小道具は美術スタッフが造るものだと思われているが、もともと「ないもの」が必要な場合に、それをゼロから創造する「特殊造型」の出番となる。今の時代、CGで何でも出来るかと言えばそうでもなく、「僕らが手で造ったものをCGに起こしたり。3Dプリンターで造れないものを造ってほしいと依頼されることもあります」。

これまでに手がけてきた作品は、リアルで迫力ある架空の生物、思わずゾワッとしてしまう人体の一部や痛々しい傷、異世界ゲームに出てくるようなカッコいい武器、ほっこり和む着ぐるみなど、なんでもアリ。中でもファンタジー系のものは、造型の美しさに目を奪われる。映画「キングダム」で長澤まさみ演じる楊端和(ようたんわ)の二刀流の剣や、特撮アクションシリーズ「牙狼GARO」で秋元才加演じる媚空(ビクウ)のティアラ、アルバムのジャケット写真の中で大森靖子が持っている悪魔の鎌など、憧れの物語世界を具現化している。

上=人気特撮シリーズ「GARO」の作者・雨宮慶太から贈られた直筆色紙。
下=SF作品のマスクには目が光るギミック

千住の路地に恐竜が

富士急ハイランドの“最恐お化け屋敷”アトラクション「戦慄迷宮」のオープニングムービーでも、TOXICの特殊造型が活躍。また、日本国内にとどまらず、韓国最大の人気テーマパーク「エバーランド」では、遠藤さんの製作した着ぐるみが、スリルを振り撒いて来場者を楽しませた。着ぐるみと言っても、モコモコした癒し系ではなくコワイ系。3mぐらいはありそうな巨大ゾンビは写真で見ただけでも迫力で、目の前に来たらさぞや恐ろしいだろう。これを生で見るためだけに、テーマパークに足を運びたくなりそうだ。

エバーランドからの依頼の中でも“大物”だったのが、恐竜・トリケラトプス。身長240cmで横幅もボリュームがあり、遠藤さん曰く「普通自動車1台分ぐらいのサイズ」。運搬用の大型トラックが工房前の路地に入れず、表通りまで自力で運んでいたという逸物。それをたまたま近所の子どもたちが目撃し、「なんだあれ、なんだあれ!」と大騒ぎだったという。千住の路地に恐竜現る!――そんなワクワクする非日常体験に味をしめ、それ以来、毎回楽しみに見に来る子もいるそうで、思ってもみなかった微笑ましい交流が生まれている。

運搬中に工房近くの路地で子どもたちに目撃された、韓国エバーランド『RAPTOR RANGER』の恐竜トリケラトプス=合同会社TOXIC提供


6分の1サイズで試作する

造型はどのようにして生まれるのだろうか。「監督さんとかと話しながらみんなでいろんなアイデアを持ち寄って練ります。監督がやりたいイメージと、物理的に可能なこと、見栄えやバランスが違うことがあるので、それらをすり合わせて最終的には自分たちが造型として整合性が取れたものを造ります」。大きいものはいきなり実物を造るのではなく、まずは6分の1サイズで製作したものをモデル代わりの人形に装着して、問題がないかを試す。この段階で監督や制作側に確認を取り、GOサインが出たら、それを実寸で造る作業に取り掛かる。

制作にかかる時間は、ゆるキャラなどの着ぐるみだと4週間程度。フォルムそのものは複雑ではないが、中に人が入って動くため部分的にメッシュにして外が見えるようにするのはもちろん、体のどの部分で着ぐるみの重量を支えるかといった内部の機構も重要になってくる。エバーランドの恐竜のような巨大なものは、被り物を通して直に外は見られないため、カメラを仕込んでモニターで見る仕組みになっている。口が開閉するレバーの仕掛けもあり、もはや着ぐるみというより、ロボットアニメのような感じだろうか。4カ月ぐらいを要した大仕事だったそうだ。

ホラーにはなくてはならない

映像、特にホラー作品は、特殊造型の出番が多い。例えば顔の皮が剥がれたシーンでは、皮の部分だけを造ったものを俳優の顔と合成する。切断された体の部位に造型物が使われるのは、言わずもがな。足にダンベルが落ちるシーンでも、重すぎて寸止めすることは不可能なため、足のダミーを造って撮影する。崖から人が落ちるシーンがダミーなのはお約束だ。そんなわけで「倉庫は死体だらけ」と遠藤さんは笑う。

逆に凶器の方をダミーにするパターンも多い。工房のテーブルに置かれていた、使い古された2本の金槌。どちらも同じものに見えるのに、持ちあげてみると片方はあまりの軽さに肩透かしをくらう。これなら、撮影中に万が一当たってもケガをすることは絶対にない。かよわい女性が、ナタや斧などの重い凶器を振り回して凶行に及ぶことができるのも納得。いかに錆や汚れを忠実に再現するかが腕の見せどころで、遠藤さんたちの手にかかると、本物と並べてあっても全く見分けがつかない。通常、アップの撮影では本物を使うが、「精巧に出来ていてダミーだとわからないからこれで撮っちゃったよ」と言われることもあるそうだ。

2本の金槌の片方はダミー。重そうな斧も持つと驚くほど軽い

ドラマや映画でよく目にする特殊メイクも、遠藤さんたちの仕事の一つ。新しい作り方や材料の時には、自分で安全性確認のためのテストメイクをする。「役者のアレルギーは必ず事前に確認します。バンドエイドでかぶれる人もいるので」。

「特殊メイクは、幽霊メイクや口裂け女とか、ゾンビが多いですね。痛々しい傷メイクもあります。やけどや注射痕とか」。血が出るように仕掛けを入れることもある。映像では見る側が「本物っぽく」感じるように造ることがミソ。実は人体の反応を正確に作ってしまうと、逆に嘘っぽくなるのだそうだ。「イメージの折り合いの加減を調整するのが仕事。映画のリアルは結構嘘なんですよ」と遠藤さん。美生さんも「落としどころは自分たちで決めるので、メイクがうまくはまると役者さんに、役になり切ることができたよ、とコメントしていただいたり」と醍醐味を話す。

あえて嘘を嘘として楽しむフィクションもある。ゾンビメイクがまさにそれ。ゾンビの恐ろしさと言えば、大量に発生して襲ってくること。そして、それはメイクする側にとってもある意味オソロシイ。撮影準備では100人以上のエキストラをメイクすることもあり、血のりや腐り具合など種類ごとの流れ作業となる。例えるなら「健康診断のように、はい次、はい次、みたいな」。エキストラの中には片っぱしからゾンビものに参加しているゾンビマニアもいて、「やってもらうの、2度目なんです、と言われることもあります」とは美生さん。

タトゥーやもんもんの依頼もある。撮影裏話で刺青を描くのに何時間もかかった、というエピソードを聞くことがあるが、和彫の手描き専門の人がやると8時間ほどかかるとか。時間がない場合に、遠藤さんのところに依頼が来る。テンプレート(型抜き)とエアブラシで描くため、2時間かからない。和彫だけでなく洋彫もできる強みもある。

上=妻の美生さん。下=タトゥー用のテンプレート。短時間でのタトゥーメイクが可能

「ハゲメイクもやります。他の仕事もあって頭を剃れない役者さんもいるので」と美生さん。ボールドキャップ(ゴム膜)をかぶせて貼り付けるのだが、ツルンときれいなハゲ頭にするのは技術がいる。時代劇の床山さんから「どうしても境目が消せないんだけど」と相談されてレクチャーすることもあるそうだ。

このスキンヘッドのメイクが、国際的なヘアメイクのショーに役立てられたことも。千住にもお店がある全国展開の美容室アッシュが出場するにあたって、スキンヘッドの上にヘアースタイルを作ることになり、その土台となる頭を担当した。

ハリウッドで貴重な体験

学生だった2009年には、アメリカのハリウッドでIMATS(international make-up artist trade show) in LAの特殊メイク部門のコンペティションに参加、最優秀賞を獲得した。当日に出されたテーマに沿ったメイクを時間内に完成させるというもので、「メーカーやメイクアップの学校が協賛していて、メイクアップの見本市のようなもの」と遠藤さん。この時のお題はSFアクションシリーズ「X-MEN」のキャラクター、ミュータント。衣装制作とメイクのプランは2人で練り、遠藤さんがモデル、美生さんがメイキャッパーを務めた。

面白いのが、作業過程が全てオープンなこと。審査員だけでなく一般の来場者も観覧している中、ステージ上に並んだ10組の出場者は、それぞれが素顔の状態からメイクを作り上げていき、最後にはランウェイを歩く。「一斉スタートで時間も決まっているので不正が出来ないんですよ」と美生さん。ランウェイを歩いている時には、お客さんたちが良いと思った作品にどんどん声を上げてくれるので、生の反応と熱気が直に全身に伝わってくる。最優秀賞という結果はもちろんだが、「一番手応えを感じたのは、現地の人たちに自分たちの作品を見てもらって好感触を得られたこと」と遠藤さんは振り返る。

現地ではアメリカと日本の造型の工程の違いも実感。日本では特殊メイクの場合、1から10まで1人でやるが、アメリカでは工程ごとに専門の人が担当する完全分業制。例えばマスクを作る場合、「彫刻する」「型を作る」「役者をメイクアップする」が全てそれぞれ違う人が手掛けるのだという。某保険会社のCMに登場するアヒルも「羽を埋めるだけの人がいるんです」と美生さん。それを目の当たりにした遠藤さんは「全ての工程を最も得意な人が作っているなら、それは素晴らしいものが出来ますよね」とハリウッド映画の力に圧倒された。

この1週間のアメリカで滞在中、コンペの参加だけでなく、財産となるような貴重な体験もできた。現地で活躍しているメイクアーティスト、AKIHITOさんと会うことができたのだ。一緒にバーベキューをしたり、工房を見学させてもらった。なんと「プレデター」「ジュラシックパーク」「ターミネーター」で実際に使われたものや、制作中の「アイアンマン2」の造型物、当時、州知事だったシュワルツネッガーの人形もあった。一流の仕事を生で見ることができたのは、大きな宝だ。

ハリウッドの映画撮影のすごさがわかる裏話を、遠藤さんが話してくれた。「例えば片足が爆発とかで吹っ飛ばされるシーンは、本当に足が欠損している人にダミーの足を装着して吹っ飛ばす。眼球をえぐり出すシーンでは、眼球がない人にダミーの目を埋め込んで撮影する。小人症の人も使いますよね。向こうではそれらを個性ととらえて、自分はこんな特性があるので使ってください、と登録しているんです」。映画だけでなく、社会そのものの日本との違いを突き付けられるエピソードだ。

子どもの頃から作るのが好き

遠藤さんの実家は、千住旭町の学園通り商店街の文具トラヤ。近隣の小中学校や足立学園の生徒たち、地域の人々に、75年にわたって慕われてきた老舗だ。建物の老朽化による建て替えに伴い、2021年12月に惜しまれつつ実店舗は閉店したが、現在は新築したビルで卸業を続けている。下町の商店街と言えば人情の代名詞のような、人と人が繋がる場所。遠藤さんは、そこで生まれ育った。

「常に商店街の中で生きていましたね。商店街の中に同級生が多かったんですよ。すぐ近くの千四小(千寿第四小学校、現千寿常東小学校)に通っていて、近所にはいっぱい友だちがいましたし、東京電機大学の場所は以前団地だったんですが、敷地の中が公園っぽくなっていて、そこで遊んでいました」。

荒川土手で爆竹やエアガンで遊んだりもしたが、やはりメインは商店街。人通りも車通りも多いが、子どもはそんなことはお構いなし。「缶蹴りをして怒られました」と笑う。商店街ならではの難点は、地面がブロック舗装のためチョークで書いてもよく見えないことだったとか。

友だちとの外遊びの一方、物を作ることが大好きだった遠藤さん。「プラモデルを作ったり、粘土をこねたり、実家が文房具屋なので造る材料には事欠かなかったので、日常的に工作していました」。どういうものを作っていたかというと、これがまた面白い。「向かいにおもちゃ屋さんがあって、よく入り浸っていました。買わずに見ていて、いいなと思ったものは家で作っていました。10歳ぐらいまでかな」。おもちゃ屋さんも、まさかそんな目的で来ているとは思っていなかっただろう。

「その頃は単純に自分の欲望のままにやってましたね。本編よりもメイキングを見るのが好きな子でした。怪獣とかが好きな子だったので、試行錯誤して自分で造ったりしていました」。ある日、怪獣が発泡スチロールで出来ていることを知った遠藤少年。実家の文具店から品物の梱包用の発泡スチロールをもらってきて怪獣製作に挑戦したが、造型用のものとは発泡率が違うためうまくいかなかった。その時の悔しさと、一途に好きなことに熱中していた気持ちが、着実に育って今につながっている。この仕事を選んだのは「幅広くいろんなものが作れるから。製造業となると作るものが決まってきて日々ルーティンになると思うんですが、これは毎回違うものを要求されるので」。


積読ならぬ積プラモ

技術を学んでいた代々木アニメーション学院で、遠藤さんは美生さんと出会った。恐竜やキャラクターが好きな遠藤さんに対し、美生さんはホラー好きでリアルな人体を表現したいタイプ。造型が得意な遠藤さんと、メイクが得意な美生さんが組むことで、お互いの強みになっている。

これまでに苦労した作品を尋ねると、しばらく考えた遠藤さんからは、「どの案件も大変じゃなかったことはない」と返ってきた。「人の感想がもらえるのが、この仕事をやっていて一番嬉しい」。

千住はモノづくりの穴場

最初はフリーランスで、案件ごとにあちらこちらの工房で学びながら仕事をする日々だった遠藤さん。ウルトラマンなどの特撮で知られる円谷プロダクションに所属していた時期もあった。個人で受ける依頼が年間の仕事の半分を超えたことから、2人で工房を立ち上げ、2013年に会社を設立した。

新たな門出の地は、今の工房の近くにあった古民家。フリーランス時代には、ロケの集合場所が新宿や渋谷のことが多かったため、利便性から高円寺に住んでいたが、「自分たちで会社を興す時期に、工房にしていいような物件をうちの両親から教えてもらいました」。その後、古民家はアパートに建て替えられることになり、現在の工房に落ち着いた。

近年は空き家が問題になっていて、いくらでも拠点はありそうだが、実は工房にできる物件はなかなか見つからないのだという。「作業ができる場はないですね。騒音とか匂いとか。機材をいろいろ入れたりするので、普通の家だと床が抜けることが多くて」。高円寺はアーティストや学生が多く、活気がある賑やかな街のイメージがあるが、それでも周囲の目が厳しかった。「この辺(千住旭町)は町工場が多かったので、すごく理解があるというか、作業していても文句を言われない。むしろ『頑張ってね』と言われます。大田区で工房を構えていた方を手伝っていたこともありますが、すごくクレームが多かったですね」。大田区は足立区同様、町工場が多い区だけに、不思議だ。足立区はゴミの分別も細かすぎないため出しやすく、美生さんも「1回もクレーム受けたことがない」と驚く。

千住は材料を買いに行くにも便利だ。様々な生地が揃う日暮里繊維街が近く、ホームセンターも南千住、竹の塚、扇橋、小台など近隣にいくつもある。北千住マルイに入っているハンズと手芸用品のオカダヤも良く利用する。「あまり知られていないけど、足立区は物づくりの穴場かな。23区内で造れる場所が確保できるのは、いいですね」。千住に拠点を構えたことで、遠藤さんも初めて知った地元の魅力の一つと言える。

今も残る路地の想い出

路地と言えば、昔は子どもたちの遊び場だったが、千住では今もそれが残っている。「時々、工房の前の道路に、ケンケンパーが描かれているんですよ」。誰が教えるのか、昔ながらの遊びがしっかり受け継がれているのを感じる。それでも、「子どもが減ったのかなぁ。最近集団で遊んでいるのを見ないですね」。以前実家で犬を飼っていた時によく散歩に行っていた通称・太郎山公園(千住旭公園)でも、2、3人で隅の方にいて何かやっているのを見かけるという。「ゲームをやっているのかも。集まれる場所が外にあるのはいいのかな。そういう意味では千住は憩いの場が多いと思います」。

工房のすぐそばに、遠藤さんが子どもの頃によく通っていた駄菓子屋「小倉商店」がある。秋冬にはおでんもやっていて、ここも子どもたちの憩いの場だ。遠藤さんも工房を構えてから、お店が続いていることを知った。

店を守り続けている小倉和位さんは、昭和5年生まれの93歳。昭和、平成、令和と時代の移り変わりを見てきた。「今は子どもが少ないから、だめだめ」と諦めたように言うが、それでも店先には魅惑的な駄菓子がぎっしりと並んでいる。仕入れは次男が車を出してくれるという。

遠藤さんが「実家がトラヤなんです」と明かすと、「トラヤさん!懐かしいねー。古いもんね」と和位さんが嬉しそうに目を細める。70年前から営業を続けていて、今の建物になったのは15年前。壁に飾られているモノクロの写真を見つけた遠藤さんが「自分が来ていた頃の建物です」と教えてくれる。その懐かしむ声には、また子どもたちで賑わってほしい、という願いがある。友だちとこの店で駄菓子を買って、食べて、楽しい思い出と共に育ってきた遠藤さん自身、娘のきっかちゃんが生まれ、親になったばかり。帰り際、「今度、連れてきます」と和位さんに挨拶した言葉に、子育てへの想いが滲んでいる。

テイクアウトを満喫

外食をすることはあまりないというが、最近はテイクアウトが充実していて、プロの味を手軽に家で楽しめるのも千住のいいところ。お気に入りは、インド料理店ブーゲンビリアのチキンビリヤニ。ビリヤニはスパイスの効いた炊き込みご飯で、遠藤さんは初めてここのお店のものを食べてハマってしまったそう。他の店でも食べたが「ここがピカイチ。店員さんに顔を覚えられるぐらい通った」。

自宅から近いこともあって、よく足を運んでいたのが自家焙煎のコーヒーのお店、SLOW JET COFFEE(スロージェットコーヒー)。元々はガレージだった建物をリノベーションした店内は、シンプルな内装で居心地がいい。工房に行く前にコーヒーをテイクアウトするのが日課だったが、最近は子育てで忙しくご無沙汰で、撮影のために行ったこの日が久々の来店となった。平日の昼下がりだったためか、お客さんは珍しく少なめ。「いつもはみなさん、長時間いるのでなかなか席が空かない。店内の雰囲気がいいから、空いているとラッキーですね」。窓の外には墨堤通りを挟んで、京成線の線路が見える。行き来する電車の音が聞こえてくるが、窓ガラスを1枚隔てただけでゆったりとした時間が流れる空間は、ぼーっとしたり仕事のアイデアの種が生まれる貴重な場所になる。

Wi-Fiと電源があり、流れる音楽も程よいボリュームで、PCで仕事をしたり考え事をするにも最適。「学園通りにもこういうカフェがほしいですよね。コワーキングスペースにもなるような。今は駅前が居酒屋ばっかりなので。個人店がもっと増えてくれると嬉しいです」。

SLOW JET COFFEEから歩いてすぐのムラサキパーク東京も、遠藤さんのお気に入りスポットの一つで、自宅から歩いて気分転換にふらっと訪れていた。「中学生の頃にインラインスケートを始め、その後スケボーをやっていたので、、あの辺に行くとちょっとワクワクするというか、スケボーをやっている人を眺めるだけでも楽しい」。夕方になると学校が終わった子どもたちが続々とやって来て、スケボー、BMX、インラインスケートを楽しむ姿は、眺めているだけでも楽しい。取材後の5月7日に閉店してしまったのが、残念だ。

隣の産廃業者の建造物とツタ、ペイントウォールが隠れたフォトスポットのようで魅力的


遠藤さんが今やっているスポーツはバイクでオフロードコースを走るモトクロス。成田や川越のコースに走りに行くという。他の趣味を尋ねると「時間があるときはバイクを整備したり、DIYで棚とか作ったり。やってみたがりなんです。本当に欲しいものは売ってないだろうな、と思って」。とことん、造ることが好きなのだ。

人のあたたかさは変わらない

「千住は交通の便が良くて便利。高速道路も入谷、千住新橋、小菅、堤通りとか。仕事で関東近辺の地方に行くことが多いので、車移動が多いんですよ」。徒歩や自転車を使う人にとっては、坂道がないところも暮らしやすい。

「他の町に住んでみて気づいたのが、年寄りが多いんだな、千住は、と。そして、小学生の頃は商店街が賑やかだったなぁと。電大が出来た頃から、若い人は増えたけど、商店街は静かになった気がします。学生は昼間はキャンパスの中で勉強しているからかもしれないですけど。昔は月に3回、商店街に屋台が出ていたんです。今はベビーカステラのお店ぐらい。前は露店がズラーッと並んでいました。駅前の和菓子屋さんもいつの間にかなくなっちゃった。ぼくが実家を離れている間に結構お店がなくなっていて、気づいたら静かな街になっちゃったなぁと」。

コロナ前は商店街が様々なイベントで盛り上げようと頑張っていた。「学園通りフェア」や「ストリート・アート」に工房として参加し、ペイントメイクをやったこともある。「その頃は父が商店街の理事長で、イベントやりたがり、だったので(笑)」。自分の顔に鮮やかな色を乗せてイラストを描くようなペイントメイクは、普段化粧をしている人にとっても滅多に出来ない体験だろう。大人も子どもも性別も関係なく、ペイントされた自分の顔が恥ずかしくもあり、何か新しい自分を見つけたような発見もあり、誰もが思わず笑ってしまう。みんなが笑顔になれるそんな場が復活すれば、またやりたいという。

遠藤さんが大人になってわかった千住の良さの一つが「子どものころは気づかなかったですが、今は路地裏に入ると古い民家とかが目について。散歩していて、味のある建物だなぁと」。千住に生まれ育ち当たり前だった風景が、一度外のまちを知った今は、すこし違って見える。

一方でまちの変化も、日々、目の当たりにしている。「あの洋館は子どもの頃から異質でした」と話す北千住駅西側の大橋眼科も、なくなったことに驚いた。マルイの場所には、レンガ倉庫があったことも記憶にある。「あの建物は今、残っていたらオシャレスポットになっていたんじゃないかな。横浜の赤レンガ倉庫みたいに」。そんな寂しさもあるが、「変化は前向きにとらえています」とも。

町並みは変わっても、人は変わらないのが千住の魅力。「千住は割と寛容なまち。前に住んでいた高円寺は、千住と比べるとゴミ出し一つとっても細かいなぁと思うことは多々ありましたしね」。「おばちゃんたちが元気。どこよりもお年寄りが元気ですね」とは美生さん。遠藤さんは商店街の福引の手伝っていた時に実感。「本当にパワフルに集まって来るんですよ。他の地区ではめったにない」。美生さんも粗品を配っていたら、おばちゃんたちが「ちょうだいー」と、どんどん持って行ってくれて、ありがたいと同時にパワーに圧倒されたという。

「よくお世話になっているおじちゃん、おばちゃんは相変わらずだなと思います。今でもトラヤさんと呼ばれます。変わらないですね」。遠藤さんが目を細める。今でも「これ、食べなー」「これ使って」といった近所付き合いが残っている。

千住は「実家みたいなもの」と遠藤さん。「実家そのものにはあまり行かないけど、この辺は生まれた時から住んでいるので」。遠藤さんにとって千住とは、の問いに返ってきたのは「楽」の一言。ゆるりと力の抜けた柔らかい笑顔が、何よりも物語っている。


Profile えんどう ときひこ
千住旭町で生まれ育つ。幼少時からもの作りが好きで、日本大学芸術学部美術学科彫刻コースを中退後、代々木アニメーション学院で特殊メイクや特殊造型を学ぶ。フリーランスを経て2013年に千葉美生さんと合同会社TOXICを設立。斎藤工初監督、高橋一生主演の「blank13」(2017)の特殊メイク、吉沢亮主演「トモダチゲーム 劇場版」(2017)の特殊造型・着ぐるみ製作など映画作品多数。最近のテレビドラマでは「エルピス-希望、あるいは災い-」(2022)(主演 長澤まさみ)の特殊メイクを手がけた。ミュージックビデオではBiSH「悲しみよとまれ」(2022)の特殊メイク、 ポルカドットスティングレイ「リドー」(2022)大森靖子「VAIDOKU」(2022)の特殊造型、ジャニーズWEST アルバム「W trouble」の特殊造型マスクなども。舞台作品の特殊造型も担う。
合同会社TOXIC https://www.toxic.co.jp/

取材:2023年3月10日、4月20日
写真:伊澤直久
文 :市川和美

文中に登場したお店など


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