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【第12回】欧州安全保障協力会議、欧州連合、ユーゴ紛争・湾岸戦争と沖縄SACO合意

【東西両陣営の社会体制の破綻と矛盾の顕在化】(1980年~2000年)
【第12回】欧州安全保障協力会議、欧州連合、ユーゴ紛争・湾岸戦争と沖縄SACO合意 
≪問い≫
1.テーマ:欧州安全保障協力会議・欧州連合(EU)
・欧州の安全保障はどう形成され、なぜ超国家連合「欧州連合(EU)」が発展したか?
2. テーマ:ユーゴスラビア社会主義連邦の解体とユーゴ紛争
・ユーゴスラビア連邦の分離独立運動は、なぜ民族浄化など悲惨な内戦にまで発展したか?
3.テーマ:湾岸戦争・沖縄SACO合意と日米同盟の変質
・湾岸戦争を契機に日米安保条約はどのように変質し、米軍基地を抱える沖縄にどのような影響を与えたか?

≪問題提起≫
1.欧州の安全保障はどう形成され、なぜ超国家連合「欧州連合(EU)」が発展したか?
東西ドイツの相互承認と国連同時加盟を経て、欧州安全保障協力会議は最終報告:ヘルシンキ宣言を採択し、再検討会議を通じて、欧州安保協力機構(OSCE)を結成した。ヘルシンキ宣言は、①国際関係の行動原則と信頼醸成措置②経済、科学技術、環境領域の協力③人間的な緩和措置と情報交換の3つの取決めを行った。第3の「人権と情報交換」の取り決めは、国境を超えた人権の尊重と情報の浸透は、東欧の民主化に大きな影響を与えた。ウィーン再検討会議は郵便と通信への検閲禁止、「安全保障」を理由とした出国制限など濫用防止を明文化した。
恒久平和をめざす国家主権を超えた機関:欧州石炭鉄鋼共同体(ESSC)に起源を持ち、ローマ条約で発足の欧州経済共同体(EEC)を経て、マーストリヒト条約で創設されたEUは、6原加盟国から第4次(95年)までで15加盟国に拡大した。この拡大は「物・人・サービス・資本の自由移動」の原則と各国固有な文化・伝統の尊重に基づく適用除外との調整プロセスへの信頼関係による。
同時に域内に国境を持たない経済統合は、金融政策の自律性、資本移動の自由性、為替相場の安定性のトリレンマを抱えており、中東欧諸国加盟に伴う加盟国内の不満と各国規制撤廃に向けたアプローチを規制権限の所在と民主主義との調和を明示しながら対応する段階にある。                           

2.ユーゴスラビア連邦の分離独立運動は、なぜ民族浄化など悲惨な内戦にまで発展したか?
第2次世界大戦後のユーゴスラビアは、ソ連と一線を画す自主管理型社会主義と民族共存に基礎を置く連邦国家として成立していた。六共和と二自治州(セルビア内のヴォイヴォディナ、コソボ)に憲法と経済主権を与える一方で、ユーゴ連邦にユーゴ共産党の指導権復活を意図する「74年憲法」は、80年代を迎え、経済危機に適応できず、連邦民族間の対立を顕在化させた。第二次石油危機に伴う援助融資の減少、貿易赤字の拡大、対外債務の増大、恒常的なインフレは、経済主権を盾にしたスロベニア国家樹立を誘発し、自治州コソボへの憲法制定付与は、セルビア人の下に暮らす多数派アルバニア人の暴動とコソボ分離独立へと進み、ユーゴ連邦の解体に繋がった。
ユーゴ連邦内の歴史的な因縁や公用語を巡るセルビアとクロアチアの対立は、政府系メディアによる民族排斥キャンペーンの応酬を生み、クロアチア内戦に発展した。また連邦解体を恐れたボスニア・ヘルツェゴビナのムスリム人の「独立確認文書」を巡るセルビア人との対立は、もともと宗教上の差異を前提として成立した共和国の規範が崩れ、各民族と宗派による域内多数派形成に向かう「民族浄化」によるボスニア内戦に発展した。
NATOの軍事介入によるセルビアとの合意のないコソボの独立承認は、「未承認国家」の承認プロセスとして、その後の国際秩序維持に大きな禍根を残した。 

3.湾岸戦争を契機に日米安保条約はどのように変質し、米軍基地を抱える沖縄にどのような影響を与えたか?
「ベルリンの壁」の崩壊による「冷戦の終焉」も束の間、中東で勃発したイランのクエート侵攻と湾岸戦争は、これまでの「極東有事」を範囲とする日本の安全保障を巡る前提を根底から覆した。「安保再定義」は、安保条約の果たすべき目的をこれまでの「極東有事」から「アジア太平洋有事」へ、さらに「周辺事態有事」に拡大するものであった。つまり米国にとっての「周辺事態」に対処する「日米防衛ガイドライン」の見直しであり、さらにそれは安保条約上の法的義務を負わない範囲の見直しとして追認された。
「安保再定義」は同時に沖縄の米軍基地再編に大きな影響を与えた。米兵による少女暴行事件は、「地位協定見直し、基地返還アクションプログラム策定」に発展したが、その結論が「沖縄に関する特別行動委員会」(SACO)最終報告であった。SACO合意は、普天間の代替基地は不可欠として県内再配置を検討するものであり、全国初の県民投票に示された圧倒的多数の民意:基地整理縮小とは相容れないものとなった。現在建設途上の2本の滑走路と強襲揚陸艦の着岸可能な護岸をもつ辺野古は普天間の代替とは全く異なる新基地建設に変貌し、しかも普天間は返還の時期さえ明らかにできない現状にある。辺野古こそ「新日米防衛ガイドライン」の現実として直視されなければならないだろう。

写真:湾岸戦争(1991年1月イラク:死のハイウエー)


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