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祖父のこと

私の祖父、山村政次郎は1908年(明治41年)に石川県七尾町(現・七尾市)に農家の次男として生を受けた。政次郎の家庭はその当時としては標準的な北陸の大家族だった。
1932年に上海共同租界で発生した第一次上海事変では、政次郎が所属する金沢の帝国陸軍第九師団に「白羽の矢」が立った。政次郎はそのことをとても喜んでいたという。金沢の第九師団、久留米の第二十四旅団は、野村吉三郎海軍中将を司令長官とする第三艦隊を新編成して、上海へ向かった

上海に派遣された第九師団は、中華民国国民党軍と大規模な戦闘に入った。日本軍は一連の戦闘で第一次世界大戦を上回る夥しい数の死傷者(戦死者約770名、負傷者2300名以上、日本側将兵の68%が死傷)を出した。国民党軍の重機関銃が発した銃弾の一つは政次郎の右肺を貫通した。戦地で生死の境を彷徨った政次郎は、4月に入り金沢衞戌病院(現・金沢医療センター)に移送された。病院では頻繁に吐血していた。政次郎はのちに裕仁天皇から勲八等勲章を授かった。
日中戦争が勃発したのは、その5年後のことだ。師団は上海派遣軍の増援部隊として再び中国大陸の戦列に加わることになり、太原攻略戦、南京攻略戦にそれぞれ参戦した。翌1938年、政次郎を含む師団の一定数が帰朝した。私の父が生まれたのは、それから更に4年後(1943年)のことだ。

終戦直前の1945年7月、政次郎が従軍する駆逐艦隊はルソン島沖を航行していた。米空母艦載機からの突然の機銃攻撃を受けたのは夜明け前のことだ。艦は一瞬で爆発し炎上した。部隊に生存者はほとんどいなかった。そのとき政次郎の年齢はまだ37歳だった。

私が祖父について知っている話はここまでだ。

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