葬送のフリーレンと宮台真司「終わりなき日常を生きろ」

アニメ葬送のフリーレン、私も家族もハマっております。上質なアニメってホントいいですね。
さて、私が感じる葬送のフリーレンの世界独特の「雰囲気」について、少しお話したいと思います。

本作はいわゆる中世ファンタジーアニメですが、その世界観の特徴は「既に勇者が魔王を倒した後の世界」だということ。だから多少、魔族の生き残りはいるものの、基本的に平和といっていい世界のようです。

平和な世界。つまり魔王がいたころのように、魔族と人類が互いの存亡をかけて激しい戦いを行っている世界ではありません。なのでこの世界には全体的に「まったり」とした空気が流れています。
なのでフリーレンのみならず、すべてのキャラクターが、ゆっくりとしたテンポでしゃべります。日常の受け答えのみならず、命を懸けた戦闘中でも、死の間際でも、声を荒げて絶叫するような場面がほとんどありません。

なんだかみんな、悟ってるんですよね。自分の運命を含め、「世の中も自分も人生も、しょせんこんなもん」という見切りがついている感じ、一言でいうと「すべてがダルい」かんじです。

さて、この「ダルさ」を感じて連想したのが、表題にある「終わりなき日常
」でした。
この「終わりなき日常」とは、社会学者宮台真司が提唱した概念です。

1990年代、東西冷戦が終結し、資本主義社会が勝利。共産主義国家が世界を滅ぼす可能性はなくなったものの、大文字の「悪」もなくなり、結果として「善」もボヤけます。そして価値観が複雑化、多様化、相対化した現代社会(いわゆるポストモダン社会)においては、物質的に満たされても、(むしろそれゆえに)なにが「良きこと」なのか、全くわからなくなってしまう。

その結果、「平和」だが「何がいいことなのかわからない」ダルい社会が永遠に続く世界、つまり「終わりなき日常」が世界のモードになります。

このような社会では、人々は不安におちいり、承認を求めてさまよいます。昔なら「共産主義を倒す」とか「経済的に豊かになる」とか、明確な目的、ゴールがあったんですが、もはやそんなわかりやすい答えは存在しません。人それぞれに、自分なりの答えを探すしかないのです。

しかし自分なりの答えを探すというのは、まさに「不安で不確実」な行為です。誰にでもできることではない。不安な人間ほど、明確な答えを求めます。その対象は「神」「国家」「カリスマ」などいろいろです。その一つの破滅的な結果が麻原彰晃率いるオウム真理教による集団テロ事件であったのです。

宮台真司は、「終わりなき日常」は現代社会の必然であり、更にこの「終わりなき日常」が終わることは今後当分ない、と語ります。無理に終わらせようとすると、いびつな「世直し、革命、ハルマゲドン幻想」を実行する、つまりオウム真理教のように破裂するしかなくなってしまうというのです。

葬送のフリーレンの世界に戻ります。フリーレンの世界も「魔王」という絶対悪が滅ぼされた後の世界です。
なので概ね平和です。そんな世界で、「勇者」「戦士」「僧侶」「魔法使い」は、いったいなんのために存在するのでしょうか?

もう魔王はいません。自然、魔王を倒すための力も不用になります。そうなると、魔王を倒すべく研鑽していたこれら職業の人間たちも、大文字の「目的」がなくなってしまうのです。
これは実は魔族側も同様です。魔族側は例えれば共産主義国家の生き残りです。滅びてはいないものの、誰も資本主義に勝てるとは本気では思っていません。少しずつ人類側に追い込まれていくジリ貧の運命を受け入れるのみです。

だからこの世界の人間たちは、種族を問わず「ダルい」かんじです。
もう、この世でなすべきこと、命を懸けて果たされるべき大義は、なくなってしまった。あとは個人個人の価値感により、自分の良いと思う生き方をすればよい。正解はない。せいぜい悔いのないように生きて、いつか死んでいく。

フリーレンは、故郷を魔族に滅ぼされ、復讐のため、魔族を狩るために研鑽を積みました。これはまさに「大義」です。魔族を狩ることのみを目標に、魔力を極限まで制御するというコスパの悪い研鑽を積み、結果「葬送」という二つ名を得るまでになりました。

しかしフランメは、そんなフリーレンを見て危険を感じたのではないでしょうか。おそらくフリーレンは目的を達成する。魔王は倒される。しかしそのあとどうなる。目的を失ったフリーレンは、なにか危うい方向に進んでいくのではないか。本人がそう思わずとも、周りの人間はフリーレンを脅威とみなすのではないか。

そんなフランメは、魔法を単に合目的な利用(攻撃魔法)に使うだけでなく、一見すればくだらないことに使いました。例えば花畑を発生する魔法とか。むしろこちらの魔法のほうが好きなのだと。

これは「正義、大義、善」などの「絶対的な価値観」に対する「多様な価値観」を示唆しています。大義の絶えた「終わりなき日常」においては、むしろこちらのほうが重要なのだというメッセージです。
これは寿命の短い人間だからこそ、かえって培われる感性なのかもしれません。

フランメの弟子であったフリーレンも、その影響を受けてそのような「多様な」魔法を収集するようになります。そのような価値観をはぐくむ下地ができていきます。尊敬するフランメのやりかたをただ真似ていただけなのかもしれませんが。

作中に現われた男性エルフ、クラフトは、遠い過去に世界を救った英雄であることが示唆されます。しかし彼は、リンメルと対峙した「魔王」には、特に手出しをしていなかったようです。ほとんど世捨て人といった印象です。

つまり長命のエルフから見ると、魔王や英雄の出現は、しょせんは繰り返される「日常」にすぎないのでしょう。すべてが、同じことの繰り返し。そんな中で記憶に値するようなことは何もなくなっていく。つまり「終わりなき日常」です。

人類にとっての魔王なき世界という「終わりなき日常」、エルフにとっての世界の繰り返しという「終わりなき日常」、これはスケールは違えど同じ構造であり、どうしようもないこの世の「節理」です。そんな日常に、人(人類もエルフも、おそらく魔族も)は耐えられない。

おそらくゼーリエは、この節理を誰よりも痛感し、これを変革しようとして何かを企んでいるように思えます。ほとんどのエルフが人類との関わりを立っている中、唯一積極的に社会にコミットしているからです。
しかし先ほどのオウム真理教ではないですが、無理な変革は悲劇となる。

勝手な感想でした。お付き合いいただきありがとうございました

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