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5.入信の時期



あなたの入信の時期はいつですか?


家の信仰の元一日ではありません。
あなた個人の入信の元一日です。


信仰の動機は何でしょうか。
 

それは、人によって千差万別でしょう。

しかし私は、
こうした問いに、
自信を持って答えることが出来ません。

生まれた時から教会で育ち、
親の言う通り素直に道を歩んできた者は、
果たして自分がいつ入信したのか。


信仰の動機は何なのか。
明確に自覚していない人も少なくないと思います。

信仰が、
二代、三代へと受け継がれてきた私たちは、
ある意味、習慣として信仰してきた嫌いがあります。

大きな身上をたすけて頂いた経験がある訳でもなく、
奇跡的な御守護を目の当たりにした訳でもない。


ただ素直に御用に勤め、
行事に参加し、
それなりに教理も学んで、
ようぼくとなりました。

教えを素晴らしいと思いますし、
信じていない訳でもありません。

ましてや、
青年や教会長という立場まであると、
周りは当然、自分をようぼくと認めてくれています。

ところが、心の奥を見つめた時、
真の信仰者と言えるのかどうか。


表面的な行為こそ、
神様の御用に従事していますが、
それは生活習慣として行っているだけではないだろうか。

しかも、
こうした人達が集まると、
信仰が団体の行為となる傾向にあります。

行事というものが盛んになり、
それは立派にこなされていくのですが、
信仰の向上に結びついている訳ではありません。

大勢集まれば意気は上がり、
一時は信仰しているつもりになりますが、
元の一人に戻ると、行事以前とさして変わらない。
なんと心許ないことか。


さて、
新型コロナウイルスのお陰で、
足元を見つめ直す機会をお与え頂きました。
この良い機会に、
もっとも根本的な心の奥の問題、
信仰の元一日について、
ひながたを元に思案
していきたいと思います。


立教の元一日はいつ?


信仰の元一日を考える上で、
何を根拠に思案していけばよいのか。

それはやはり、
立教の元一日だと思います。

秀司先生の足痛を機縁に、
寄加持を行うこととなり、
教祖を加持台としたところ、
元の神様が天降られました。

世界一れつをたすけるために、
みきを神のやしろに貰い受けたいとの啓示(おつげ)があり、
夫・善兵衞様がご承知されました。

この日を、立教の元一日とすることは、
周知の通りであります。

この一連の流れは、
本当に大切な事柄が含まれていると思います。

考えてみれば、
善兵衞様はただ、
長男の足痛を治して欲しいだけでした。

その願いを叶えてくれるのなら、
いわばどんな神様でも良かったのでしょう。

ところが、 
「世界一れつをたすけたい」という神様が出現したのです。
当惑するのも無理ありません。

「私はただ、息子の足痛を治して欲しいだけなのです。
 世界?なんて、そんな大きな話、今はどうでもいいのですが……」

私なら、おそらくこんな感情を抱きます。

人間側のお願いと、神様側の主張が食い違っているのです。

人間側は、いわば我が身我が家をたすけてほしいという
ご利益信心の域でしょう。

けれども親神様は、
世界中をたすけたいという壮大な親心ですから、
我が身たすけてほしいでは、
ご承知下されませんでした。

三日間による協議の結果、
ついに善兵衞様は、
神様の思召をお引き受けになったのです。

問題は、
立教の時期がどこで決定されたかということです。

親神様が啓示(おつげ)下さった時ではありません。

神の思召を人間が承知した時
すなわち天保九年十月二十六日が
立教の元一日
だということに大切なポイントがあると思うのです。

神様の話を聞き、おぢばへ帰り別席を運ぶ。
おつとめも出来るようになり、
教会へ日参するようになると、
私たちはつい、
これで入信したように考えてしまいます。

しかし、
立場がどうであれ、
「我が身たすけてほしい」 との心のままでは、
この時はまだ、天保九年十月二十四日に等しい情況かもしれません。

入信の時期とは、
親神様の目的である世界たすけの一役を担わせて頂きます、
と心を定めた時。

そう考えて、
立教の元一日とピタッと照準が合うように思うのです。


善兵衞様のご決心

さて、
立教当時の善兵衞様のお気持ちは
いかがだったでしょうか。

入信の時期を思案する上で、
人間の代表として
一番最初にご決心下さった善兵衞様の御態度にこそ、
私たちの参考とすべきお手本が示されていると思います。

当時、こかん様はまだ生後十一か月でした。
その他にも小さいお子様は沢山おられ、
中山家は、村の役も務められていました。

そうした状況下では、
到底主婦を差し上げる訳にはいきません。

おまけに近所の方々にまで、
口をそろえて「お断りする方が」と勧めれますと、
100%断った方が良い条件が整っている
と言えるでしょう。
事実、再三お断り申されました。

しかし、
元の神様も厳としてお退きになりません
(元のいんねんがあるからです)

善兵衞様は、
だんだん為す術がなくなり、
「このままでは、みきの身体も心配だ……。
お受けするより他に方法はない」
 と、ついにご決心なされます。

言葉は悪いかもしれませんが、
決して前向きとは言えません。

「どうしようもない」
「仕方がない」
 というのが正直なお気持ちだったのでしょう。

一見、あまりカッコいいとは言えないように思えるのです。

しかし私は、
この善兵衞様の御態度に、
底知れぬ勇気を頂きます。

思えば善兵衞様は、
秀司先生の足痛という願いを
たすけて頂いた訳ではありませんでした。

何か御守護を頂き、
その御恩を感じたからでもありません。

まだ何もたすけて貰っていない状況、
しかも人間思案で考えれば
100%断った方が良いと思われる情況の中を

「あらゆる人間思案を断ち、一家の都合を捨てて、仰せのままに順う旨を対えた」(『天理教教典』三頁)のです。


入信を考える上で、
誠に尊きお手本であると仰がして頂きます。
なんとカッコいいことかと思うのです。

私たちも、身上事情に遭遇いたします。
そんな時、
我が身たすかりたいからと、神様にお縋りすることは、
決して悪いことではないでしょう。
むしろ良いことだと思います。

ところが、
そこで神様から求められるのは、
私たちの希望ではなく、
世界たすけのようぼくに使いたいとの思召です。
逆にお願いされる形になります。

ここで仰せ通り心を定めた時、
これが入信の時期
といえます。
信仰の元一日とは、
こんな構造になっていると思うのです。


 
さて、改めて自分に問い直してみます。


あなたの信仰の元一日はいつですか?



未信者の自覚



私は、気づかせて頂きました。


自分は未だ、信仰していないーと。


しかしこれは、
決してネガティブな気づきではありません。

信仰しているつもりでいるよりは、
信仰していないと自覚できた方が、
前に進んでいる
と思うからです。

思うに入信の心定めは、
必ずしも人生一度きりとは限らないと思います。

何度も道を逸れそうになり、
気づかず逸れてしまう時もあり、

幾度となく決心し直し、
繰り返していくうちに成人させて頂くのでしょう。

おそらく神様は、
今日も朝づとめで、
私にこう啓示(おつげ)下さっています。

「我は元の神、実の神である。このたび世界一れつをたすけるために、お前をようぼくに貰いうけたい。」


コロナで、
足元を見つめ直すチャンスをお与え頂きました。


マンネリを打破し、
真っ新な気持ちで、
一から信仰の道を歩み出したいと思います。


『稿本天理教教祖伝』 p8
遂に善兵衞は、事ここに到ってはお受けするより他に途は無い、と思い定め、二十六日、朝五ツ刻、堅い決心の下に、
「みきを差上げます。」
と、お受けした。  (第一章 月日のやしろ)


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