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15.三昧田村

 

『稿本天理教教祖伝』 p11
 教祖中山みきは、寛政十年四月十八日朝、大和国山辺郡三昧田に生れられた。(第二章 生い立ち)


 教祖は、ご幼少の頃から信仰熱心なお方であった。
 前川家は、代々浄土宗の檀家であったので、幼い頃からお母様に連れられてお寺参りをされるようになり、早くもお経や和讃を暗唱されていたらしい。
 御年十二、 三歳の頃には、浄土への憧れがつのり、尼になることを懇願され、それが為に、縁談を断られたほどである。

「信仰」というものは、そんな幼くして分かるものなのか……。ちょっと異常ではないかと思う。
 なぜ教祖は、それほどまでに信仰を求められたのか。今回は、その謎について想像を膨らませていきたい。


   ◆

 人が信仰を志すきっかけは、様々な動機があるだろうが、集約して、超ざっくり説明するならば、

「自分ではどうすることも出来ない困った状況に、その解決を、神や仏の力に頼ろうと思った時」

ではないか。

 現実に満たされない何かを、人智を越えた神様の世界に委ね、祈る。そういった時に人は、信仰との接点が生まれるのだろう。
 お道の信仰も例外ではない。身上や事情をたすけて頂きたいとの願いから、入信した方が多いのは事実である。

 では、当時の教祖はどうだったのか。教祖にとって、現実に満たされないものとは、一体何だったのか。

   ◆

 いろいろ探索してみるが、これが中々見当たらない。むしろ逆の情報ばかり、次々と見つかってくるのである。


 教祖のお生まれになった環境は、あまりにも恵まれていた。

 前川家は裕福な家庭で、食べ物やお金に不自由する家ではない。無足人として名字帯刀を許されており、お侍さんとの交際まで許されていたような家柄である。さらには代々大庄屋として、近隣十か村を束ねておられたほど。

 身分も、経済面も、人々の信用も、何もかも恵まれており、乳母日傘で育てられた教祖にとって、浄土宗のような厭世思想にかぶれなければならない理由は、どこにも見当たらなかった。

 強いて挙げるなら、生来身体が丈夫でなかったことか。
 しかしこれも、一方では人一倍働き者だったといわれ、綿木引きを一日二段半もお抜きになるという尋常でない働きぶり。丈夫でなかったとはいえ、問題になる情報ではなさそうだ。


 果たして教祖は、なぜ、そこまで信仰を求められたのか……。


 その謎を解くヒントが、冒頭に上げた教祖伝の一文である。

 あくまで憶測だが、教祖のお育ちになった当時の大和国、三昧田という村の生活環境が、教祖の信仰に大きな影響を与えたのではないかと推察する。

 以下、当時の三昧田村に視点を移してみよう。


   ◆


 そもそも江戸時代は、まだ封建社会であり、当時の「国」の概念は、今と少し違っていた。大名などが治めている地域(藩)なども、一つの国として認識されていた。

 今でこそ日本は、北海道から沖縄までを一つの国として、一つの法律のもと治められているが、当時はそれぞれの大名によって、税金の額や法律など、生活のルールが異なっていたのだ。

 例えば、和歌山県(紀伊の国)地域であれば、紀州五十五万石といわれるように、和歌山県と三重県の二県分ほどの広域を、一人の御主人が治めていたし、その隣りの愛知県(尾張の国)だって、もっと広い領域を一人の藩主が治めていたのである。

 ところが、この奈良県(大和)地方は、ちょっと妙な地域であった。百人を越える支配者の所領が入り混じっており、それぞれの領土は、めちゃくちゃ細かく分割されていたのである。

 顕著な例は三昧田。三昧田村は、たった四十数軒ほどの小さな部落であるのに、細道一本を境に、東三昧田と西三昧田に分かれており、それぞれ東は柳本藩の所領、西は藤堂藩の所領というように、はや大名が違っていたのだ。


 大名が違うと、大変である。

 三昧田なんて、西だろうが東だろうが、同じ小さな村なのだから、雨の量や収獲の量も、そう大差ないはずだ。それなのに、柳本藩の方は沢山税金を取られ、藤堂藩の方は割かし緩い、みたいなことが起こってくる。そんな状況で、お互いが仲良く暮らせるはずがない。

 また、大名にとってみれば、他国の者に自国の情報が知られることは、あまり良い気がしない。よって、隠密(今でいうスパイ)を派遣し、他国民とペチャクチャしゃべっていないか監視する大名もあったほどだ。

 となると、同じ村に住んでいても、迂闊に人と会話することさえ拒まれてしまう。

 教祖の周辺は、なんと暗い世界であったことか。なんと寂しい、バラバラの世の中であったことか。



   ◆


「もっと世の中の人が、手と手を取り合って、助け合うことは出来ないものか。」


 教祖は、そうお考えになっていたに違いない。

 ところが、いくら努力しようとも、所詮は一百姓家の小娘。自分に出来る事と言えば、目の前の人に、底なしの親切を尽くすことくらいであった。子どもの面倒を見てあげたり、自分が貰ったお菓子を分けてあげたり。

 しかし悲しいかな、封建制度の下において、世の中の根本解決には、あまりにも遠すぎたのである……。


「なぜ世の中は、こんなにバラバラなのか」

「どうすれば、人々がたすけあって暮らすことができるだろうか。」


 そんな課題を抱きながら、お寺へ参ると、なんやら坊さんの口から、人生の課題の解決になりそうな言葉が、チラッと聞こえてくるではないか。

 世界中の人間が幸せに暮らすために大切なこと。人生の課題を、根本から解決できそうなヒントが、坊主の口から聞こえてきたような気がしたのである。

 これが、教祖の信仰心の芽生えの感情ではなかったか……。



   ◆

 
 もはや妄想の域であることをお許し願いたい。

 教祖は、自分の生活が裕福で安定していたならそれで良い、という訳ではなかった。
 どうすれば、困っている人を根本からたすけることが出来るのか。どうすれば、皆がたすけあって暮らせるだろうか……。
 そうした人生の課題が、信仰の世界へと惹きつけられる要因ではなかったか。

 
 もし私なら、そんな幼き頃に、自分のおやつを分け与えることすら、到底出来なかった。
 いや、大人になった今でさえ……。

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