2.教祖の縁談
『稿本天理教教祖伝』p13
庄屋敷村の中山家へ嫁いでいた叔母きぬが、姪の人並優れた天分を見込んで、是非、倅善兵衞の嫁にほしいと懇望した。両親からこの話を当人の耳に入れた処、生来身体が余り丈夫でない処から、浄土に憧れ、かねて尼になりたいと思われていた頃の事とて、返事を渋っておられたが、両親から、嫁して夫に仕えるこそ清浄な婦道である、と、懇ろに諭される言葉に納得して、
「そちらへ参りましても、夜業終えて後は、念仏唱える事をお許し下さる様に。」
との希望を添えて、承知された。
(第二章 生い立ち)
教祖ひながたの道は、月日のやしろとなられた天保九年から、現身をお隠しになるまでの五十年間の道すがらである。
これは今更論ずるまでもない。
では、天保九年以前の道すがらは、スパッと切り捨てて良いものだろうか。
私はどうも、これでは寂しい気がする。
立教以前の道すがらにも、教祖の尊い足跡が残されていると思う。
それを信仰の手本とすることは、なんら神意にそむくことではないと信じる。
そこで今回は、教祖の縁談にまつわる一節を読み深め、尊き足跡を偲ばせていただきたい。
人生最初のふし
教祖は、ご幼少の頃から信仰熱心なお方であった。
前川家は、代々浄土宗の檀家であったので、お母様に連れられてお寺参りをされるようになる。
浄土和讃を暗唱されるなど、信仰は次第に深められていき、御年十二、 三歳頃、ついには尼になりたいと熱願されるまでに至った。
これにはご両親も、大変驚かれたことであろう。
尼になるということは、頭を丸めて、生涯独身で御仏に仕えることを意味するからである。
貝原益軒の『女大学』にあるように、当時、女性は嫁して夫に仕えてこそ、清浄な婦道であると考えられていた。
ご両親は、このままでは、どんどん信仰の世界へ入り込んでしまうと焦られたのか、教祖わずか十三歳にして、中山家との縁談を急がれたのであった。
ところが教祖は、返答を渋っておられた。
教祖のお気持ちを察する時、いかがであろうか。
軽率だが、私は、相当心苦しかったのではないかと推察する。
元より志した道と、真反対を勧められたのだ。
いつも従順な教祖にとって、初めてご両親との意見がくい違ったのである。
自分の希望を貫けば、親に背くことになる。
親の勧めに従えば、自分の希望は叶わない……。
親の意見と、自分の希望がぶつかることは、誰しもよく経験することであろう。
たとえ些細なことであっても、望みを妨げられることは、あまり良い気がしない。
それが殊に、教祖にとっては、縁談であった。
今後の人生を左右する大問題であったのだ。
一方を立てれば、一方立たず―。
教祖のご生涯にとって、最初に遭遇せられたふしであったといえるかも知れない。
名を捨てて実を取る
さて、教祖はこのふしをどのようにお通りになったのか。
どのように乗り越えられたのであろうか。
ご承知の通り、縁談を承諾され、中山家へ嫁がれる決心をされた。
ご自分の希望を突っ張られたのではなく、ご両親の勧める道をお選びになったのである。
ここで私が申したいのは、全て親の言う通りに事を運ぶことが、素直で正しい道だということではない。
教祖のふしの通り方に、大切な事柄を学ばせていただけると思うのである。
中山家へ嫁がれた教祖は、ご自身の希望であった信仰を、一切捨てられたのかといえば、決してそうではなかった。
むしろ、より活発に信仰生活に励まれたようにお見受けできる。
五重相伝を受けられたり、百日の裸足参りをされたり、結婚後のご生活も、信仰の道を貫き通されているのである。
換言すれば、
「名を捨てて実を取られた」といえるだろう。
教祖は、尼という立場が目的ではない。
その中身である信仰成就が本来の目的であった。
信仰を深める手段として、尼という立場を望まれたのである。
しかし、それはご両親の意見に添わなかった。
そこで教祖は、名目をパッと捨てられ、仰せ通り婦人の道を歩まれたのだが、その中にあって、信仰の道は一層深められていったのである。
一見、対立するような矛盾を、見事、双方立て切って通られたのである。
私の経験
この道すがらは、私にとって非常に支えになった経験がある。
布教の家卒寮が近づいた頃、私は、次の進路に迷っていた。
当初、大教会青年を勤める予定だったが、寮長先生からの単独布教への熱い勧めに、深く感銘を受けたのである。
ところが、親や上級教会の会長さんに相談すると、先に青年づとめをする方が、との意見。
寮長にそれを伝えたが、やはり単独布教推し。
私はしばし悩んでいた。
そんな時、教祖縁談の話が、先の道を明るく照らしてくださったのである。
―― そうだ。名を捨てて実を取れば良い。
単独布教師というのは、あくまで立場である。
目的は、にをいがけ・おたすけにある。
なにも戸別訪問に従事することだけがにをいがけではない。
大教会に勤めながらも、おたすけに励むよう努力すれば良いではないか。
空き時間があれば、神名流しに出れば良いではないか。
大切なのは、立場ではなく中身だ。
そう思うと、快く青年づとめの道を決心できたのである。
立場を全うする
以上、教祖の縁談に関する思案を重ねてきた。
しかし、私がもっとも尊敬するのは、その後の通り方、婦人としての務め方である。
教祖のお嫁ぶりは、実に素晴らしかった。
『天理教教典』(第五章ひながた)には、以下のように記されている。
人の妻として、忠実やかに夫に従い、両親に仕え、家人をいたわり、篤く隣人に交り、又、家業に精を出された。
(中略) よく怠け者を感化し、盗人を教化されたばかりでなく、自分を無きものにしようとした者に対してすら、その罪を責めることなく、我が身の不徳のいたすところとして、自然のうちにこれを徳化された。又預かった乳児が病んだ時には、我が子、我が身の命を捧げ、真心をこめ、命乞いをして、瀕死の児を救われた。 『天理教教典』45~46頁
その他にも、十六歳にして所帯を任されるなど、どれほど婦人としての道が素晴らしかったか、枚挙にいとまがない。
考えてみれば、本来はお望みでなかった道である。
それを、これ以上ないというほど完璧に務め切られている。
私はここに、敬服せずにはいられないのである。
一方で、私の青年づとめはどうだろうか……。
教祖の道すがらには、どうやら、まだまだずっと遠いようである。
R183.5.14
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