疑う事に終始し、与えるという発想がないのはモッタイナイ

童心を持つ事は大事だけど、単純にガキっぽいのは損をするという記事を読んだ。

確かにどんなに才能があっても、

例えば挨拶ができない、態度が悪い、空気を読まなすぎるなど

一般的にマイナス要素と思われるものが目立ってしまうとチャンスを逃す可能性は高くなると思う。

もちろん何か考えがあって、戦略としてあえてそういった行動をとるのは自己責任なので良いと思うし、

特例として、そういったマイナス要素が霞むくらいの結果を出していて、信用が揺らがない人の場合も問題ないと思う。

ただ、純粋に、それがマイナス要素だと知らずにやってしまっているだけ、というのは得策とは言えないだろう。

最近よく思うのが、ガキっぽさ、というのとは少し違うかもしれないが、

様々な事象をほぼ受け身で、納得できるか疑うかのような二元論に終始してしまい、他者に何かを与えたり、与えてもらったり、といった生産的な発想が欠落している人を見かける事が多い気がしている。

疑う事は決して悪いことではないし、むしろこのご時世、何も疑わずに無防備でいる事の方が危険だと思うし、自分もほとんどの場合、できる限り常識と言われるような事であっても疑うように心がけてはいる。

ただ、もしせっかく思考するのであれば、もう少し深く考えてみても良いのではないかと思う。

自分の中では少なくとも次の3つの段階があると思っていて、

①まずはあらゆるものを疑って、自分の現在の価値観と向き合ってみる。

②ある程度疑ったあとは、そこで得た情報を元に、仮定で良いので、自分なりの論理を組み立て、そして今度はその仮定を元にして、生活の中で試行錯誤しながら、その論理の正しさを考察していく。

③ある程度試行錯誤したのち、これは確度が高いと思った時点で、それを”自分の考え”としてみる。そして、それがもし自分以外の誰かにも有益な情報になりそうな可能性があれば、あくまでも”自分の考え”として、今度は他者にも共有して意見を求めてみたりする。

個人的には、実際に話していて楽しかったり、有益だと感じるのはこの3段階目にいる人達だという実感がある。

③にいる人達と話す場合は、まず感情的で無意味な議論になる事がほとんどない。

感情的で無意味な議論にならない理由は2つあって、

1、まず③に到達するまでに、自分と違う考え方がある事を理解している

2、①〜②までは、あくまで自己の内面に向かっていく作業であるのに対して、

③は、そこである程度確信を持った考えを、今度は自分の外の世界に向けて発信したり共有し意見交換などをして、よりアップデートさせたいという段階なので、ここではその性質上、我を通したい訳ではなくて、あくまで自己のみで精査しきれなかった新しい考えや環境、意見が欲しいのだ。

③に至るまでの精査が洗練されていればいるほど、自分と異なる発想を得られる可能性が高く、興味深くなるし、また、もし対立するような考えであったとしても、お互いに距離を持つという選択肢をほとんどの場合はとる事ができると思う。

例えばこれを人生の節目に置き換えてみると、(もちろん例外もたくさんあると思うが)、

①が思春期の反抗期にあたるのではないかと思う。今まで当たり前と思っていたことを初めて疑い始める事で様々な事を思考するようになり、これが自己を確立する一歩になるのではないかと思う。

②は社会に出始める頃にあたるのではないだろうか。モラトリアム期において自己の内面をある程度認識した上で、今度は経済的にも自立する為の社会的なアイデンティティが必要となり、そこでより多くの試行錯誤が必要となるのではないだろうか。

そして③において、内的、外的、両方の自己をある程度確立し始めた頃に、より豊かな発想を得たいと思い始めれば、今度は、外の世界に対して、与える、そして与えてもらう=ギヴアンドテイクによって、世の中に価値を生み出していく事ができるようになるのではないだろうか。

長くなってしまったが、最初の話に戻ると、外見上は成熟した大人であっても、①の段階で止まっている人を多く見かける、という話だ。

①の人はほとんどの場合、疑う事に終始し、隠された真実を暴く事に執心し、そしてそれが自己のアイデンティティであると勘違いしてしまっている事が多いのではないかと思う。

それが幸せだと感じるのであればそれで全く問題はないが、疑う事のみに終始すれば、目の前に有益な情報があったとしても、それを有益なものだと認識できない可能性があるので、それはとてももったいない事だと思う。

また、これはあくまで個人的な見解だが、世の中で成功者と呼ばれる人で①、②止まりの人は見た事がないし、③か、それ以上の行動をとっている人がほとんではないかと思う。(④以上はまずギヴありきで、なおかつその量数が桁外れであり、そしてそれに対して何倍ものテイクが還元されるような状態)

もちろん成功を望むかどうかは全く個人の趣向であり自由な部分ではあるし、前述の通り①のままでも幸せだと感じる場合は何の問題もない。

ただ成功したいと口にしながらもずっと①のような状態の人をたまに見かけると、できればうまくいってほしいとは思うし、可能であれば、何か提言してみるような事もあるが、思いが伝わったと感じる事はほとんどない。

それは何故かと考えていた事もあるが、最近気付いた事ではるが、おそらく自分自身が疑われているに他ならないと思う。それは自分自身の問題でもあるだろう。

だからと言って、特に深い関係でもないのであれば、そういう人にそれ以上何か熱心に尽力するような必要性もないし、恐らく自分自身で何かに気づかない限りは先の段階へは進めないと思うので、

むしろできる限りそういった人とは距離を置き、そしてできればその時間を、より有益な情報のやりとりができるコミュニティに費やした方が誰にとってもプラスになるのではないかと考えている。

こういった自分のような考えの人も少なくないと思うので、できれば疑っているだけで満足してしまっている人は、次の段階へ思考を始めてみても良いのではないかと思う。



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