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首を寝違えて気付いた「当たり前」の幸せ

こんにちは。
スポーツメンタルコーチの石井タイキです。
下の名前がカタカナなのは、読み方をよく間違えられるからです(どうでもいい)
ということで、先日久しぶりに首を寝違えました。
※今も首が痛いです。
タイトル通りなのですが、首を寝違えたことで
「あぁ、日頃の“当たり前”って当たり前じゃないんだなぁ」と感じましたので、
そこについて深掘りした結果、気付いた話をしていきます。

首を寝違えたことで「普段見えてないこと」に気付けた。

僕は現在、スポーツメンタルコーチとして独立し個人で仕事を行なっています。
なので仕事をする場所や時間などに特に縛りなどもなく、
・自宅で仕事をするとき
・外のカフェで仕事をするとき
・貸し会議室を利用するとき
・クライアント先へ訪問するとき
場所は様々ですが、基本的には自宅から駅まで自転車を利用しています。

その中で、今ダントツで不自由を感じるのは「自転車に乗っている最中」
僕は自転車に乗っているときは左車線の車道を走ります(当たり前か)
路上駐車している車などがあるときはその車を避け、道路中央にはみ出しながら
自転車を運転しなければならないのですが、安全のため僕は毎回後ろから車が来てないかを確認するようにしています。
※いきなり道路中央に自転車が飛び出すと追い越そうとする車と接触の危険があるため

しかし、今僕は「首を寝違えている」
つまり首が思うように回らないのです。
これは本当に困った、安全確認をしたくても簡単じゃない。
体ごと後ろに向けると今度は前方不注意で何かにぶつかるかもしれない。
自転車に乗ることへのリスクなんて日常で考える方が少ないと思います。
しかし、首を寝違えたことで「自転車に乗るってこんなに危険があるんだ」
気付くことができました。

「約束された明日」なんてない。

話がすごーく変わるのですが、
「明日で地球が滅亡したら最後はどうする?」
こんな問いかけを昔、友達同士でよく話してたなと思い出します。
明日、地球が滅亡するかどうかは知りませんが、
「明日も自分は今まで通り生きている」なんて保証はどこにもありません。
こんな言葉は聞き飽きていて響くことは少ないかもしれませんが、
それも仕方ないのかなとも思います。
喫煙することで明らかに健康被害がありますと知っていて喫煙をやめないのは、
きっと心のどこかで「別に喫煙しててもしなくても命尽きるときは尽きる」
と思っているからなんでしょうか?(喫煙者の方どうですか?)
要するにここから何が言いたいかと言いますと、
「人は他人を変えることは出来ず、自ら変わることを選ぶことで変化する」
ということです。

例えば、喫煙がきっかけで
病気になって、
辛い闘病生活が続いて、
不自由な生活を人より早く送る可能性がある。
その結果「タバコなんて吸わなきゃよかった」と思うかもしれない。
しかしきっとその人はその出来事を経験しなければ、
そう思うに至らないんじゃないか?と思うわけです。
実際に喫煙が原因で病気になってしまった人から「タバコはやめとけ」と言われることがあったとしても、どこか他人事になっている人は多いと思います。
※喫煙以外での話にも言えることだと思います。

そう考えたとき、
「僕はもしかすると自転車に乗っているとき事故にあうかもしれない」
今回、首を寝違えたことでリアルにイメージできたんです。
首元がヒヤッとしました。
「今日死んでもおかしくない」
「約束された明日なんてないんだ」
心からそう感じました。

「最悪を考える」ことの重要性

話が大きくなりすぎなんじゃないか?
そんな大げさに考えても意味あるの?
そう思ったかもしれません。
自分でもそう思います、昔から妄想は得意だったんです(やかましいわ)

プロのメンタルコーチとして活動する中で、
いろいろな競技の選手や指導者の方とお話する機会があります。
その中でも「良いイメージを作ることの重要性」は多くの方がすでに知っていました。
しかし、それだけじゃ不完全だと僕は伝えています。
「最悪のケースを想像すること」もとても重要なんです。
なぜなら、思い通りに物事が運ぶ方が少なく、
人は想定外の出来事に直面するとテンパって正常な思考ができなくなるからです。
皆さんのこれまでの経験の中でも「思い通りにことが進んだこと」より、
圧倒的に「思い通りにならなかったこと」の方が多いはずです。
※コロナウィルスもその一つだと思います。

話が少しズレましたが、
だからこそ「話が大きくなるくらいの方がいい」のです。
その方が何か悪いことがあってもある意味「想定内」として判断・行動できます。
つまり「最良のイメージと最悪のケースはセットで考える」ということ。

ではどうして今回、
首を寝違えたことでここまで深く考えることになったのかを考えてみたとき
「僕の母親に関する話」をふと思い出しました。

不死身だと思っていた母親の体に起きた不調

僕は幼少から心のどこかで「母親は不死身」だと思っていた節があります。
僕の育った家庭は男4人兄弟の6人家族です。
※動物園のように騒がしい家庭で、その中でも母親は最強でした。
そんな中でも母親は、
・毎日一人で家事をこなし
・毎日仕事をし
・また毎日一人で家事をこなし仕事へ行く
僕は中学(給食なし)〜大学4年(アメフト部所属)まで約10年間、
ほぼ毎日お弁当を作ってもらってました(他にも3人の兄弟がいる中で)
大学に入ってからなんて2つお弁当を持たせてもらってました。
今考えると、それがどれだけ大変なことなのか少しは理解できます。
だからこそ、うちの母親は不死身だと無意識に心のどこかで思っていました。

そんな母親が2020年の11月ごろに倒れました。
翌日に人間ドックを控えており病院には行かなかったらしいですが(行ってくれ)
結果的に「大腸に腫瘍が9つもある」ことが分かりました。
手術して摘出してみなければ、悪性なのかどうなのかも判断しきれない状態。
もし悪性だったら、「大腸がん」ということになります。
ここでやっと僕は気付きました。
「自分の母親も人間で、寿命があって、不死身なんかじゃなくて、死ぬんだ。」
至極当たり前のことです。
人には寿命があって、いつか死ぬ。
病気になったら平均寿命より少し早めに死ぬこともある。
当たり前のことで、当然で、自然の摂理です。
それでも僕は心のどこかで「自分の母親は不死身でずっと生きてる」と、
そう思っていたんです。
そんな出来事があったからこそ、
「約束された明日なんかない」と、心から気付くきっかけになったのかもしれません。

日常にある「当たり前」は当たり前なんかじゃない

僕たちが生きている中で、
・当たり前に電車が動いて
・当たり前に仕事・学校に行き
・当たり前にお店が営業していて
・当たり前に生活している
いろいろな「当たり前」が当たり前に毎日の中に溢れています。
しかし、これらは決して当たり前なんかじゃなく、有り難いことなんです。
「有り難い」とは「あることが難しい」と書きます。
つまり、感謝(ありがとう)が生まれる瞬間とは存在自体が尊いものと言えます。

日常に溢れている当たり前を「有り難い」と思い、
お世話になっている人や大切な人に「ありがとう」と伝えることって
とても大切なことだと改めて実感しました。

過去を悔やむ時間もあるでしょうし、
未来を憂う時間もあるでしょう。
そんな中だからこそ、
目の前にある一瞬に感謝することができたらどうでしょうか?
今という時間を「有り難い」という気持ちを持って生きることで、
何が変わるかは知りません(おいおい)
しかし、「当たり前を当たり前としてしか認識していなかった自分」ではなくなっているはずです。

毎日を悔いなく生きるためにも、
自分自身、大切にしていきたい考えだなと思いました。
皆さんも首の寝違えにはぜひ気を付けて下さい(真剣)

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