生活 と たいせつにする こと。
久しぶりにnoteを書こうと思って、近況をどう書こうか考えている。
綴っていない2ヶ月を思い返すと、喜びと苦しさが混ぜこぜになっていて、それをここに書くことも誰かに言うことも、私は出来ないだろうなと思った。
一つなのに沢山の感情で溺れそうな、それは優しさであって痛みであって、そして、それが ”たいせつ” なのだと思った。
(これまでの”大切” や ”愛” や "幸せ" の記事)
我ながら、
私は神経質なところがあると思う。いつもの場所に置いてあるものがないというだけでバランスを崩しそうになって、タオルの畳み方を間違えたことに気づいたとか本棚の並びが違うとか、それだけで全てを消したくなる。醜いから壊れてしまえと突きつけたくなる。
私の中でだけ成り立てば良い理論で、優しい世界であって欲しいと願いながら、頭の中では今日も私や誰かが痛んでいる。想像で虐げて、それはもうずっと癖のようで。
目を開くだけで苛立ちを感じるような世界だけれど、服装や持ち物など、私が管理出来ることが私にとって綺麗で、私の理から外れない限りは大丈夫だった。外で醜いものに心が波打った時も笑ったままで、帰宅後は毎日のルーティーンを間違えないように進めて、部屋の全てを定位置に揃えて、そうしてバランスを取りながら歩いてきた。
ボールを横にスピンさせながら真っ直ぐに進めようとするような、そんな気がしては、いた。
”生活”という大切なこと
これまでに24回ほど生活の拠点が変わった。そこに3を足すだけで私になる。これまでの全てに愛着があったわけではないけど、無かったわけでもない。
3を引いた一昨年、生活は安定のために必要なことなのだと理解してから、私なりの”生活”を模索してきた。きちんとしすぎないこと、すること。忘れないようにする工夫と、息を続けるための楽と、それから「仕方ないよ」と手放すこと。私の理にグレーゾーンを作った。苛立ちと楽を天秤にかけるようにバランスを気遣った。
私が思う生活は、心身ともに生きるための活動だから、「生活なんて止めちゃいたいな」と思った時は息抜きをいれる。そういうことになっている。「生活のために仕事をするので、仕事のために生活はしない」そういうことになっているらしい。”生活” のことを考えたときにどう感じるかが指標であって、指標には決まりがあって、それは決まったものだから その通りにする。それが私のバランスの取り方、均衡の保ち方で。
だから最近は戸惑っている。今日は戸惑いを整理するために、言葉を紡いだ。バランスを崩しているわけではないけれど、嫌な感覚だとは思わないけれど、確かに不安定で。それでも、それが生活になっていくのだろうと思った。天秤にかける回数が減って、かけることが変わって、それが私なりの”たいせつにする” ということなのだよと想った。
秋は好きな季節だけれど 夏の疲れが押し寄せるから、反射する世界が眩しいから、深く息を吐いていこうね。Sena.