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伺って得て 失って痛くて、 囚われて

「子供は、何があっても親を愛するものだよ」という言葉は、呪いであり救いであると思っている。”子供”という言葉が、年齢を指すのか関係を指すのか、”愛する”という言葉が温かいものなのか冷たいものなのか、それによって変わるのだけれど。

そんなことを考えていたら、また文章が綴れない気がして、早く言葉を紡ぐことにした。数分前に、[完成しない下書き]が また1つ増えたので焦りながら。精一杯で話すから、聞いて欲しい。過去の私も、未来の私も。


仮定して目を逸らしながら、

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なんだ私は昨年の春も書いていたのかと思いながら、今回は違う目線の話だと思っている。どうだろう。同じような話をしている気もする。

幼児の時は親に依存し、愛しているものだと仮定すると。そしてそれが損なわれたら。対象となる”親”が居ないと生きていけない幼さで それを利用されたら。そうして”愛” や ”信頼” "安心" が、成功報酬だと、成功してないと貰えないものだと脳に染み付いたら。

だとすれば、愛すること、信頼すること、安心だと感じた気持ちや時間すらも、怖くなるのかもしれないと考えた。

だってそれは私が努力して何かを与えて、与えたものが正しくて、その結果なのだから。だから努力を続けないといけないし、躊躇いもなく犠牲を払う必要があるし、間違ってはいけないし、だってそうじゃないと生きていけないのだから。

そうして、囚われて。

伺って得て失って痛くて、怖いに決まっているじゃないか。
あの頃とは違うのだと分かっていても、もう私は私で生きていけるのだと全てが証明していても、変わることは心が引き裂かれるように痛いことで。(変わらない方が楽だ、気づかなければ良かった)と思うほどに痛くて。それを話すことも痛みを紛らわすことも出来ない今で。鈍い過去の傷を感じながら、鋭い今の痛みと向き合って。

痛いことばかりじゃないか。笑っていないと、逃避していないと、心を投げないと、留まれないような毎日じゃないか。

それでも耐えることが出来ている私は、少しは強くなったのだろうか。ただ、痛いと表せなくなっただけだろうか。耐えられる程度の痛みなのだろうか、それは本当なのだろうか。

それでも、私は向き合っていることを。

ただ、それだけの。それだけの、お話。


未来の私が、「こうすれば良かったんだよ」と教えてくれますように。私が安心して眠れる夜を願って。
君も、どうか救われて。

Sena.


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