日記 11/
夜の住宅街の孤独さについて。
子どものころ、夜が怖かった。みんなそうだと思う。
母はよく、「家があれば人が住んでいるんだから、夜でも怖くない」というようなことを言っていた。
今は、気晴らしの散歩で深夜徘徊をすることがある。
ロードサイドのコンビニ、牛丼チェーン、これらがあるうちは孤独ではない。
しかしやはり、真に孤独なのは住宅街だ、と思う。
確かに母の言う通り、人は住んでいる。間違いない。
だけれど、僕がこの夜において孤独であるのには変わりない。
確かに、住宅街なのだから、人は住んでいるのだろう。
もう寝ているか、明日に怯えながらベッド上でスマホを弄っているか、リビングでテレビを見ているか、家族の帰りを待っているか…各々の生活を、僕はある程度まで推測することはできる。
でも、だからこそ、なのだ。
彼らには彼らの生活がある。僕とは一切関係なしに。
夜の家々は、沈黙でそれを物語るのだ。
僕はRPGにおける勇者ではない。勝手に家に上がれば、警察を呼ばれるか、その場で殴り倒されるだろう。深夜のインターホンですらトラブルになりかねない。
だから、夜の住宅街は沈黙で孤独を語る。
電柱の二つ目が僕を睨む。『不審者に注意!』のポスターだ。
カーブミラーには誰も映っていない。
自販機は絶えずわずかに唸り声をあげている。
僕はこの夜で孤独になっていく。
※
住宅街に隣接する団地を少し歩くと、コンビニがある。
立地としては、住宅街のど真ん中だ。
煌々とした灯りは、まるでセーブポイントのようだった。
※
記憶は身体に刻まれたしわのようなものだと思う。
あるいは襞。
最近、過去が増えていく感覚がある。
タブララサに刻まれた書き込み。
マジックメモ。
※
老人は自身の耄碌に自覚的になった。
自身の耄碌に気が付かないほど、痴呆が進行する前に、妻に「神」と「時間」を願った。
妻が言ったことは正しく、時間の基準である。
老人は、自身が完全に呆けてしまう前に信仰を打ち立てた。
これで、老人は痴呆が進んでも、安心して正統なる時間軸に生きることができると考えた。
ある日、妻が倒れた。
老人はどうなるのだろう。
※
祖母は祖父の事を「お父さん」と呼んでいた。
アルツハイマー型認知症が進行した祖母は、祖父の事を「実父」だと思い込むようになった。
固有名と確定記述。
記憶が乱調されてしまうこと。
祖母の「お父さん」に、何が書き込まれていたのか、僕は想像してみる。
祖母が僕の顔を見て、全く見当違いな人名を言うとき、祖母は何処の記憶に飛んでいるのだろうと考えてみる。
※
最近ウィアードコアに興味を持った。
というか、あの感じに名前がついていることに驚いた。
今後も、僕の作風と同化していくだろう。
※
電車でGO!の、ポリゴン世界の孤独さについて考える。
孤独さ、というか…孤立さ、とでもいうのか。
ざらざらとしたテクスチャで描かれる線路。
電車を待っている、微動だにしない顔のない客たち。
あの世界にも生活があるんだろうか。
レールを走るしかないプレイヤーにとって、あの世界はひどく孤独である。
ポリゴンの夕暮れの気味の悪さ。同時に、心地よさ。
なんなんだろう、あの感覚は。