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  • 昼下がりに家を出て、ランニングをした。

  • 霧岸川の土手を走った。長い川だ。

  • 草木は徐々に色づき、秋を思わせた。一方で気温は高く、温暖な日だった。

  • 雲一つない夕暮れだった。街がこがね色に染まっていた。家々の輪郭がはっきりとしていて、流れる水が陽光を拡散させるように反射していた。

  • 欄干にカラスがとまっていた。僕が通り過ぎても微動だにせず、ただ嘴だけを動かして鳴いていた。

  • BGMとして、音楽ではないけれど、「小倉拓也・講演「ドゥルーズの芸術哲学―感覚・記念碑・可能」(著書『カオスに抗する闘いードゥルーズ・精神分析・現象学』より)」を聞いていた。以下は放言レベルのメモ。特に確認はしていないので完全に自分用。

  • いまここにある世界への信。

  • 可能的なものの持続。「この」世界。

  • 疲労、不可逆的に解けてしまうこと。潜在と現働を行き来できる「若さ」と、そうできなくなってしまう「老い-疲労」、ということなのだろうか。

  • だからこそ「可能的(いまあるものの組み合わせ)」への信が要請されたのだろうか。

  • 老い(不可逆的な疲労)。可能なものを保持する段階。

  • 芸術作品…現在の感覚の塊。モニュメント≒(テリトリー?)。可能的なものの現存。私の背後の世界が消滅することなく存続するという信。私に与えられなくなっても、それが存続することを信じること。

  • モニュメントは可能的なものの現存を約束する=この世界を信じる。

  • 『ドゥルーズ 思考の生態学(堀千晶)』では、身体行為としてあらわれなければ抽象的なままだと留保した上で、カオスモスを信じること=可能的なもの以前を信じること、といった読みだったっけ。そもそも、本書はあまり『哲学とは何か』への言及はなかったかな。

  • 可能なものと同時に不可能的な、まだ世界に産出されていないものを信じること。ただしさを宙づりにすること。

  • カオスに対する抵抗、といった要素は薄かった印象。でも、たしか無底と発生論については五章に詳しかったはずなので、読み直そう。

  • 自分の日記を書くために、「自分用」だなんて留保がいるんだろうか。公開している以上は必要なんだろうけれど…。この日記は、こうしたマインドブロックを取り外すための練習でもある。下書き段階で何度も逡巡したけれど、まぁ、こうやって公開されている。

  • そうでもしなければ、僕はずっと何も言わないまま、そのまま死んでいくんだろう。それもありなのかもしれないけど。

  • できればせずにすませたい、の精神。なのかも。

  • 40分ほど走ると、いわゆる「ランナーズハイ」状態に突入した。

  • 頭がクリアになり、夕暮れが訪れつつある街並みがより一層はっきり見えた。

  • 休み休み走っていた。霧岸川は長い。僕の設定したルートでは、途中で中央線と京南線、二本の鉄橋をくぐることになる。

  • もう限界だし帰ろうかな、と思ったが、気合でもう一度走り始めてみて、少し経った時だった。

  • まず足の痛みが消えた。続いて疲れが消えた。何も考えていないのに、全てがわかるような気がした。川の流れ、拡散する夕陽、そよぐ草木、その全て。

  • 吸う、吐く、吐く。さっきまではリズムを意識していた。でも意識する必要はなくなった。僕はもうリズムの支配者になっているからだ。リズムが僕を支配して、僕はリズムを支配した。

  • 自らの呼気のリズムを支配し、呼気のリズムが僕を運動させる。ずっとそれが続く気がした。ずっと。

  • でもいつか、疲労はやってくる。

  • 「あなたは今幸せではありません」と警告してくれるアプリケーション。将来、脳内物質が可視化されたら、そんな感じでQOLが定量的に測定出来たりするんだろうか。