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リミナルスペースと〈ぞっとするもの〉/東扇島を散歩して

画像は川崎港海底トンネル人道(神奈川県川崎市川崎区千鳥町・東扇島)。東京湾観光情報局から転載した画像である。

はじめに

本文は、リミナルスペースと〈ぞっとするもの〉についてのおぼえがきである。

リミナルスペースとは、誰もいない駅構内、駐輪場、トンネル、会議室などの空間に、不気味さと共に魅力を見出すインターネットミームである。本文では、リミナルスペースの条件を後期資本主義の「どこでも区切れる性」に見出す

〈ぞっとするもの〉とは、マーク・フィッシャーが『怪奇なものとぞっとするもの』において指摘する存在や知覚の様態であるが、それはとりわけホラーの情動に関わる。〈ぞっとするもの〉は人のいない場所で容易に見出されるとしており、本文ではそれをリミナルスペースの問題圏に引き付けて考えてみたい

それらを私的な体験に編み込んで、なんとか語ってみよう…というのが、本文の試みである。

追記:先行文献(木澤佐登志「Liminal Spaceとは何か」)をここに記しておく。よくよく考えればマルク・オジェを知ったのは『感傷マゾvol.7』の「架空のノスタルジー座談会」における氏の発言だった。無意識に影響を受けていたことに気づき、まとまった文章を発見したので付記しておく。リミナルスペースとノスタルジック・ホラーを架橋する素晴らしい見取り図である。

東扇島へ行ってきた

だいたい一年前ほどのことだが、神奈川県川崎市東扇島に散歩に行ってきた。めちゃめちゃコワかった。というかずっと不安だった。

見ての通り、臨海部の人工島である。

物流のために作られた町だけあって、そこに生活の痕跡はない。

想像してほしい。確かに電線や、建物や、車は存在する。けれども、その全てから生活感が脱色されているのだ

建物は四角くて白く、巨大で、そこに窓は無い。大型車が通ることを想定しているため道路は広く(まるで怪獣が歩くことを想定しているみたいだ)、そして歩行者のための設備が最小限である。つまり歩道が狭い。横断歩道も少なく、向こう側へ渡るために迂回しなければならない時も多々あった。

帰りが夜になってしまったということもあってか、町は異様な雰囲気を纏っていた。町は夕方から起床するかのようだ。日が落ちて空が藍色に染まると同時に、振動と騒音が町中を覆う。日中は閑散としていた人工島が、物流拠点たる姿を見せ始めたのだ。

トラックはどこかへ向けて動き出す。まるで町が、自律的に代謝しているかのように。

人が歩くことを前提としていない町。町自体が生き物のような町。僕はそんな妄想をしながら、東扇島を安全に配慮しつつ練り歩いていた。

あの時の不安感を今なら少しは言語化できるのではないかと思い、こうして今、文章を起こしている。

よければ本文の読後、ストリートビューで散策してみてほしい。実際に赴いてみるのもいいだろう(ただ安全には気をつけて)。

マーク・フィッシャーによるホラーの情動

マーク・フィッシャーは、『怪奇なものとぞっとするもの』において、ホラーの情動について〈不気味なもの〉〈怪奇なもの〉〈ぞっとするもの〉という分別を与えた(厳密に言えば、ジャンルではなく存在や知覚の様態にかかわる概念であるが(1-p90))。

これらに依拠しつつ、三つのタイプの怖さについて考えてみよう。フィッシャーは特に「ぞっとするもの」に焦点を当てており、これは普段社会に働いている力を捉えることで、資本主義の先を構想するプロジェクトでもあるのだが──ここで触れる余地はない。というか、僕自身ざっくりとしかわかっていないので、僕の文章を警戒して読むか、参考元に当たっていただければと思う。

雑に言えばこういうことだ。

〈不気味なもの〉親密なものが恐ろしく感じられるイメージ。例えば、父親や母親、古くから親しんできた人形など、親密なものが急に気味わるく思えること。フロイトに由来する概念である(1-p90~91)。

〈怪奇なもの〉親密な空間に外部が侵入してくるイメージ。例えば、「家になにかよくわからないものがいる」といった類のホラー。フィッシャーはラヴクラフトを念頭に置いている(p-89)。内と外が隔絶しており、外部としてカオスの様相のまま(クトゥルフの怪物を想起しよう)こちらに現れるイメージとして考えられるだろう(1-p105)。親密な空間に何かが侵入するという意味では、いわゆる「ホラー」に近いかもしれない(幽霊が「出た!!」と言われるように)。

〈ぞっとするもの〉なぜそうなっているかわからない=作用因がわからないイメージ。この概念は、空間的というよりかは時間的なのでちょっと難しい。フィッシャーはイースター島のモアイをたとえに出している。モアイはわれわれにとって、「なにかよくわからないもの」でしかない。どう使われていたのか、何が目的なのか、あるいは、島民は何か強迫的な思いでこれを作り上げたのか…それらの象徴秩序を探るすべがない今、我々はモアイを「もの」として見るほかない。不在し損ね、存在し損ねること。廃墟などにも妥当するという(1-p94~96)。

リミナルスペースのこと

どこで区切ってもいい性

ここでも急ぎ足になるが、僕はリミナルスペースの条件を「どこでも区切れること」に求めている。

リミナルスペースとは、誰もいない駅構内、駐輪場、トンネル、会議室などの空間に、不気味さと共に魅力を見出すインターネットミームである。

何気ない構造物がある種の神妙さを纏うことをうけて、僕は空間の「どこでも区切れる」性質に着目する。

かつて境界の機能を果たしていたのは、例えば鳥居、注連縄、先祖代々守り継いだ土地、そうした類のものだったはずだ。土地-共同体-個人が一体であることは、「ハレ/ケ」「外/内」といった境界が明確に示される与件である

現代社会において、超越性はほぼ失効している。おなじみ、「大きな物語の崩壊」という論点だ。都市部への出稼ぎと共同体の崩壊、個人化、共同体の聖地たる神社の観光地化、古くからある家業がコンビニエンスストアに…等々。ここにおいて土地-共同体-個人の一体は崩壊し、エスニシティ=アイデンティティの桎梏が外れ、ヒトは自由を得る。そして自由の代わりに、アイデンティティの不安定-流動化が保障される…といえなくもないだろう。

超越性の失効をパラフレーズすれば、実存の準拠枠が個人化してしまっている、ということだ。マルク・オジェを補助線にしてみよう。

マルク・オジェは、「非-場所」という概念について以下のように言う。「非-場所」とは、「アイデンティティを構築するとも、関係を結ぶとも、歴史をそなえるものであるとも定義することのできない空間(2-p104)」であり、ショッピングモール、空港、駅などといった例が挙げられている。さしあたって、資本を円滑に循環させるために作用(!)している空間であるといえる。

しかしオジェはまた、「非-場所」は純粋な形で存在しないとも言う(2-p105)。アイデンティティを構築し、人間が関係を取り持ち、歴史を備える「場所」の全ては消えることがない。あるいは、「非-場所」の例で挙げられているような場所が「場所」に転化することもある(例えば、バイト先での人間関係など)。ゆえに、「非-場所」は特定の場所を指すのではなく、場所が絶えず流動化したり組み変わったりする運動として捉えられるだろう

神社は観光地化しているけれども、聖性を完全に失ったわけではない。コンビニエンスストアは資本を循環させるための場であるかもしれないが、そこで人間関係が育まれる可能性もある。意味を持つ場が流動化しているのだ

いや、むしろこう言えるだろう。現代社会において、意味を持つ場や境界は、それぞれの個人が自由に設定できるようになったのだ、と

超越性が失効し、個人に実存が準拠し、アイデンティティがエスニシティの桎梏から解放された時、この世界をどこで区切ろうが個人の自由になる。

僕はこうした後期資本主義の「どこで区切ってもいい=どこを境界にしてもいい」という性質を、リミナルスペースの条件だと考えている。

ゆえに、会議室、路地裏、駅構内などといった何気ない場所に、現代的個人は境界を感じうるのである。

百科事典のこと

世界は権利上、どこで区切ってもかまわないのだ。ホルヘ・ルイス・ボルヘスの短編「ジョン・ウィルキンズの分析言語」に登場する中国の百科辞典は、そのことを思い出させてくれる。

⒜皇帝に帰属するもの、⒝芳香を発するもの、⒞調教されたもの、⒟幼豚、⒠人魚、⒡架空のもの、⒢野良犬、⒣この分類に含まれるもの、⒤狂ったように震えているもの、⒥無数のもの、⒦駱駝の繊細な毛の鉛筆で描かれたもの、⒧その他のもの、⒨花瓶を割ったばかりのもの、⒩遠くで見ると蠅に似ているもの。

J・L・ボルヘス「ジョン・ウィルキンズの分析言語」
『続審問』、中村健二訳、岩波書店、2009、p184~185

この分類法が示唆するのは、言語や分類方法の恣意性であり、我々にとってある恣意性=権威が自明になっているということだろう。例えば、僕らは科学的な分類法を自明のものとしているがゆえに、この百科事典を奇妙なものとして受け取る。

しかし先述したように、超越性=大きな物語が失効しつつある現在において、僕らもこのように世界を自由に区切ることができるようになる。

その空間的な実践が、さしあたってリミナルスペースであると言える。

ちなみに、ここで触れる余地はないが、僕がたまにドゥルーズ-千葉雅也を参照して言う「器官なき身体」に関しても、こうした「マイナーな切断方法の肯定」的な意味合いで使っているところがある。(千葉雅也『動きすぎてはいけない ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』、河出書房、2017、p236~p237)。

写真であること

リミナルスペースを表現する媒体は、往々にして写真である。これも、重要な要素の一つである気がしている。個人的な感覚を元に展開してみよう。リミナルスペースの体験の度合いは「写真>現地で立ち止まる>動画」である。

動画では、境界性が弱い。当たり前の話ではあるが、動画は流動的である。時間性(≒作用因)を含み込む、と言ってもいい。止まっていること、静止していること…その時空に強く切れ込みを入れる=境界を入れることが、リミナルスペースを強く立ち上がらせる契機になると考える。

というのも、僕はGoogle Mapのストリートビューをだらだら見るのが好きなのだ。勿論、車載動画や実際の散歩も好きなのだけど、ストリートビューからしか得られない栄養があると思えてならない。

ストリートビューは、すなわち写真である。旅をしているとも、動画を見ているともつかない感覚。例えるなら、ドット絵の世界で一歩一歩(1マスずつ)世界を踏みしめる感覚。そう、ドット絵もストリートビューも、それぞれ移動と境界が一体になっている(参考)。なめらかな世界(現実-オープンワールド)では得がたい感覚…その感覚を擬似的に立ち上げること、それがリミナルスペースなのだろう。

〈不気味〉で〈ぞっとする〉リミナルスペース

ホラーの話に戻って、リミナルスペースの魅力について考えてみる。僕は〈不気味なもの〉と〈ぞっとするもの〉が、完全ではないにせよリミナルスペースにある程度妥当すると考えている。

駅構内や駐車場など、「なんでもないもの」が不気味に思える。普段親しみすぎて素通りしているそれが、急に首をもたげてくるような感覚。普段通っている道が、夜になると姿を変えるように、だ。自分の領土内にあるはずのものが、急に恐ろしく感じられる。〈不気味なもの〉の性質である。

〈ぞっとするもの〉については、まずもって「私は何故これに魅力を感じるのか?」「どうしてここなのか?」といった、「どこでも区切れる」の逆説、私が「ここ」を選んだ作用因の不明瞭さにかかわる、メタ的な「ぞっとする」要素がある。

そして「どのようにしてこれらが使われているのか?」という、オブジェクトレベルにおける疑問も存在する。勿論、例えば写っている空間が倉庫なら、僕はそれを「倉庫じゃん」と言えることは言えるのだが、「人がいないこと」がとりわけ重要なのだろう。

「人」というエージェンシーが不在であることによって、写真に収められた何らかが「いかにして」使用されているのかといった情報も不在となり、それによって作用因への洞察が掻き立てられるのである。あるいは、作用因の情報を捉え損ねることで、その空間が「空間それ自体」としてしか把握されない可能性もまた、考えられるだろう(イースター島のモアイの例)。

ぞっとする感覚について、フィッシャーは「身内の空間より、人のいない空間に容易にみいだされる」といった旨を述べており(1-p92)、そうした意味でも、リミナルスペースとの関連を感じさせる。資本はいかなるレベルにおいてもぞっとするものなのであるから、それを循環させる施設についても、様々な角度から(認知できない)作用因が働いていることだろう。

こうしたことから、リミナルスペースは〈ぞっとする〉感覚と〈不気味〉な感覚を提供してくれる、と言えそうである。

東扇島にかえって

というわけで、僕は東扇島に〈ぞっと〉したのであろう。写真でなく実際に歩行することを念頭においても、東扇島はリミナルスペースを見出せる条件がそろいすぎている。

まず、東扇島には人がいない。勿論トラックを運転しているのは人だし、倉庫にも従業員がいるだろうが、可視化されている歩行者は少ない。というか、島を離脱するまでに十人ほどしか見かけなかった。

そして、生活感が脱臭されている。窓がなく、無機質で白く巨大な建物が連なる通り。どこかへ向かうべく列をなすトラック。遠くから聞こえてくる振動。異様に広く、横断し難い道路。資本を潤滑させるべく多くの作用が集中し、それぞれの動線が絡まりあう空間において、僕はそれらを全て処理することはできない。

僕の脳は建物を雑居ビルや家屋に変換したがるが、実際には色がなく取り付く島もないほど無機質な建物であり、それはただの「もの」として現れる。建物に立ち寄ることが許されないのだ。

そうしたこともあって、何に使われているのか、何が起きているのか、何処へ行くのか、といった作用因についての推察は、留まることなく脳内で展開される…〈ぞっとする〉体験である。

〈不気味〉については妥当するか微妙なところがあるが、僕は確かに感じたのだ。「道路」「トラック」「建物」といった、全国津々浦々で見られるアレンジメントの様子が、どこかおかしい。一見すると(親しみのあるはずの)町なのに、そこにあるべき生活がない。道路は向こう側が遠く、僕が小さくなったか、町が大きくなったかのような錯覚を覚える。この気味の悪さは、僕にとって確かに〈不気味〉な体験だったように思える。

おわりに

リミナルスペースは、「どこでも区切れる」性質が条件となっている。

そして、〈ぞっとする〉感覚はまさにその条件からメタ的に生まれる。またリミナルスペースは、人というエージェンシーが不在であることによって作用因の不明瞭さが際立っており、そうしたことからも〈ぞっとする〉感覚が生まれうる。

ラフな感じで書き出したけれども、良い感じに書けたんじゃないかと思う。とりあえず、今日はここまで。

ちなみに、東扇島に行くときの注意事項。

秋冬は臨海部であるため特に寒い。防寒しましょう。

散策が夜にもつれ込むなら、黒い服はやめた方がいいでしょう(可視性を意識しましょう)。また、ライトは安心料として持って行った方がいいです(めちゃめちゃ暗い道がある)。

歩くので、歩きやすい靴でいきましょう。

川崎駅から結構遠いので、バス移動は必須です。

…ストリートビューでいいな!!

でも夜はほんとに雰囲気いいんだよな~~。


〈参考文献・注〉

木澤佐登志「Liminal Spaceとは何か」、fnmnl、2021、https://fnmnl.tv/2021/11/16/139203(最終閲覧日、2022.12/13)

(1)マーク・フィッシャー「怪奇なものとぞっとするもの」大岩雄典訳,解説『早稲田文学2021年秋号』、筑摩書房、2021

(2)マルク・オジェ『非-場所──スーパーモダニティの人類学に向けて』、中川真知子訳、水声社、2017

J・L・ボルヘス『続審問』、中村健二訳、岩波書店、2009、p184~185

千葉雅也『動きすぎてはいけない ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』、河出書房、2017